斯波氏・今川氏・斎藤氏らが台頭した「東海」戦国勢力図
戦国武将の領土変遷史⑪
足利一門が統治した東海地方で勢力図に異変が起きる

美濃のマムシと呼ばれ、周囲を震え上がらせた斎藤道三。戦国三大梟雄のひとりとして悪名を轟かせる。都立中央図書館蔵
室町幕府が関東支配のためにおいた鎌倉府は、関東8か国と伊豆・甲斐(かい)の2か国を支配下に置いていた。
鎌倉府は幕府から自立する傾向にあり、そのため、幕府は鎌倉府との境界に位置する東海地方東部には、足利(あしかが)一門を守護(しゅご)としている。駿河(するが)今川氏、遠江(とおとうみ)と尾張(おわり)は斯波(しば)氏、三河(みかわ)は一色(いっしき)氏である。また、美濃(みの)の土岐(とき)氏も将軍足利氏と同じ源氏(げんじ)で、一時は尾張・伊勢の守護を兼ねていた。
斯波氏は室町幕府の管領(かんれい)を輩出する三管領(さんかんれい)のひとつで、越前(えちぜん)を本領とし、尾張・遠江守護を兼任していた。しかし、斯波義健(よしたけ)の死後、養子の斯波義敏(よしとし)が足利一族渋川(しぶかわ)氏の出身の斯波義廉(よしかど)と家督を争い、これが応仁(おうにん)・文明(ぶんめい)の乱の一因になってしまう。
応仁・文明の乱では、斯波義敏が東軍、斯波義廉が西軍につき、義廉の被官朝倉孝景(あさくらたかかげ)の活躍で西軍の勢力を強めた。しかし、越前守護の権限行使を幕府に認められた朝倉孝景が東軍に寝返ったことで、結果的に斯波義敏は越前を失ってしまう。
美濃では、応仁・文明の乱で守護の土岐成頼(しげより)が西軍につく。このころ、守護代・斎藤利藤(さいとうとしふじ)の叔父にあたる斎藤妙椿(みょうちん)が実権を掌握しており、この斎藤妙椿が西軍の主力となったことで、美濃から近江(おうみ)あるいは飛驒(ひだ)にまで進出していった。しかし、その勢いも文明12年(1480)に斎藤妙椿が死去すると、衰えていく。
明応4年(1495)、美濃では守護・土岐成頼の後継をめぐって子の政房(まさふさ)・元頼(もとより)の兄弟が争い、政房が守護となった。そして、この政房が嫡男・頼武(よりたけ)を差し置いて次男・頼芸(よりのり)を跡継ぎに指名したことで、さらに争乱が激化することになる。
三河では、三河のほか丹後(たんご)・若狭(わかさ)・山城(やましろ)の守護も兼ねていた一色氏が6代将軍足利義教(よしのり)と対立したことにより没落し、管領・細川氏の庶流にあたる阿波守護・細川持常(もちつね)、成之(しげゆき)が新たな守護となっていた。しかし、その支配は安定せず、松平氏・吉良(きら)氏・戸田氏・牧野氏などの国人(こくじん)が割拠するようになる。なかでも、松平信光(のぶみつ)は細川成之とともに、三河復権を狙う一色氏を押さえ、応仁・文明の乱後には勢力を拡大させた。
駿河では、応仁・文明の乱を機に、守護の今川義忠(いまがわよしただ)が勢力の拡大を図る。今川氏は、南北朝の動乱で今川範国(のりくに)が室町将軍となる足利尊氏(たかうじ)に従って活躍したことで駿河・遠江守護になったものの、このころ遠江は斯波氏の守護領国となっていた。応仁・文明の乱で東軍についた今川義忠(よしただ)は、文明6年、遠江へと侵攻していく。しかし、斯波氏に従う東遠の横地(よこち)氏・勝間田(かつまた)氏を破って凱旋したところ、塩買坂(しょうかいざか)で反撃をうけて討ち死にしてしまった。