甲相駿三国同盟破棄後の攻防と武田氏滅亡
戦国武将の領土変遷史⑨
同盟関係は目まぐるしく変わり、越相同盟破綻から甲越同盟締結へ

天目山の戦いでの武田勝頼の陣取りを描いた錦絵。右には勝頼の嫡子・信勝の姿も描かれている。都立中央図書館蔵
永禄10年(1567)、信玄の嫡男で謀叛(むほん)事件により幽閉されていた義信(よしのぶ)が死去した。義信の妻は今川氏真(うじざね)の妹であったため、これをうけて信玄と氏真の関係が悪化し、氏真は上杉謙信に同盟を要請した。同11年12月、ついに信玄は美濃の織田信長(おだのぶなが)・三河の徳川家康(とくがわいえやす)と同盟し、駿河に侵攻した。
これにより甲相駿(こうそうすん)三国同盟は崩壊し、北条氏は今川氏を支援して信玄との抗争を開始した。それにともない謙信に同盟を申し入れ、同12年に北条氏と謙信の同盟が成立する。これを越相(えつそう)同盟という。これにより謙信方との抗争は停戦され、北条氏は信玄との抗争に専念した。
しかし北条氏と抗争を続けていた里見氏・佐竹氏・宇都宮氏は、謙信への味方を拒否し、結城氏・下野小山氏らとともに、信玄と結び第三勢力を形成した。
北条氏は当初、駿河東部を占領し、今川氏真の養子に氏政長男国王丸(氏直/うじなお)を入れ、家督を譲らせて駿河支配権を確保した。しかし信玄の攻勢により、小田原城を攻囲されるほか、駿河の大半、武蔵の一部まで経略された。
謙信は越相同盟と同時にもたらされた甲越和与(こうえつわよ)の交渉に応じていたが、元亀元年(1570)に氏康六男景虎を養子に迎えて、北条氏との同盟実現を決心する。しかし援軍を出さない謙信に不信感を募らせた氏政は、同2年10月に氏康が死去したことを契機に、謙信との同盟を破棄し、再び信玄と同盟した。
同3年から再び北条・上杉両氏の攻防が展開された。天正元年(1573)に謙信は佐竹氏・結城(ゆうき)氏・宇都宮氏との同盟を復活させる。しかし謙信の勢力は伸張せず、同2年に北条氏は下総関宿(せきやど)城(千葉県野田市)を攻略し、古河公方勢力の統合を遂げる。
同5年に下総結城氏が氏政から離叛し、佐竹方に加わった。氏政はこれを攻撃したが、佐竹方は佐竹氏を中心に勢力を形成して対抗した。その後、氏政は里見氏を攻撃し、同盟を成立させた。
同6年、北条氏は佐竹方勢力との対戦をすすめ、北関東に出陣したころ、関東出陣を予定していた謙信が急死した。家督を養子の景勝が継いだが、これにもう一人の養子の景虎が対抗し、上杉氏では内乱が展開した。これを御館の乱という。氏政は弟景虎支援に動き、武田勝頼(たけだかつより)に支援を要請した。
勝頼は越後まで出陣したが、氏政の進軍の遅れをみて、上杉景勝と同盟して帰陣してしまった。これを甲越(こうえつ)同盟という。
信長の「関東惣無事」と天正壬午の乱の展開
甲越同盟の成立により、北条氏政と武田勝頼の関係が悪化し、天正7年に上杉景虎(かげとら)が滅亡したことで、両者はついに敵対し、抗争を開始した。それにあたり氏政は織田信長・徳川家康と同盟し、さらに同8年には信長に従属する。これにともなって氏政は家督を氏直に譲った。
勝頼は上杉景勝との同盟に加えて、佐竹方勢力と同盟し、互いに対抗した。景勝は、御館(おたて)の乱に勝利して越後を確保したものの、織田信長の侵攻をうけ、加賀・能登・越中を経略され、勝頼を支援する状況になかった。
勝頼は佐竹方勢力と連携し、北上野を経略、さらに東上野への侵攻をすすめ、北条氏との抗争を優位にすすめた。しかし駿河・遠江(とおとうみ)では劣勢であった。佐竹氏は小田氏を従属させ、常陸のほぼ一国を領国とした。同10年正月に信濃の有力国衆木曾義昌(きそよしまさ)が信長に従属したことを契機に、信長による武田氏攻めが展開され、3月に武田勝頼は自害し、武田氏は滅亡した。
このとき北条氏も、駿河河東・西上野に軍勢を進軍させているが、信長のもとに出頭することはなかった。武田領国は、駿河は徳川家康に、甲斐・信濃・上野は織田氏重臣に配分され、上野には家老滝川一益(たきがわかずます)が派遣された。また信長は、佐竹方勢力についても従属をすすめ、これにより北条氏と佐竹方とで停戦が成立した。この状態はのちに「関東惣無事(かんとうそうぶじ)」と称された。
そして、6月の京都本能寺の変により、旧武田領国は崩壊した。甲斐では武田旧臣が蜂起し、北条氏はこれを支援して軍勢を派遣した。また北関東に軍勢を派遣し、滝川により割譲させられた領国を奪還、さらに当主氏直が出陣して滝川と手切れし、織田氏から独立した。北条軍と滝川軍は上野・武蔵国境の神流川(かんながわ)で合戦し、北条軍が勝利した。滝川は敗退し、上野から信濃を経て織田領国に後退した。
北条軍は追撃して上野の経略をすすめ、次いで信濃に進軍して、国衆の従属をすすめた。上杉景勝は越中の織田軍を後退させると、信濃北部を経略した。徳川家康は、織田家臣の没落後に、織田氏の了解をえて甲斐・信濃経略を開始した。
氏直は川中島に進軍し、上杉軍と対陣したが、信濃国衆が徳川氏に攻撃されたのをうけて、甲斐に進軍して徳川軍と対陣した。しかし戦況は硬直したため、家康と和睦し、さらに氏直と家康娘督姫が婚約し同盟を成立させた。家康との領土協定により、甲斐・信濃は徳川領国、上野は北条領国と決められた。
監修・文/黒田基樹