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戦国時代の幕開けを告げた「享徳の乱」

戦国武将の領土変遷史⑤

■公方・足利氏と、幕府後援の関東管領・上杉氏の争い

JR日暮里駅前にある太田道灌騎馬像。荒川区内には他にも道灌ゆかりの史跡が複数存在し、「日暮里道灌まつり」も開催されている。

 室町時代後期、関東・伊豆・甲斐(かい)・奥羽(おうう)を統治した鎌倉府は、首長の鎌倉公方(かまくらくぼう)足利氏と補佐役の関東管領(かんとうかんれい)山内上杉(やまのうちうえすぎ)氏のコンビで政務が担われていた。しかし15世紀半ばから、室町幕府と鎌倉公方足利氏の対立が深まると、関東管領山内上杉氏は幕府側の立場をとり、その結果、鎌倉公方足利氏と、幕府の意向をうけた関東管領山内上杉氏との間で政治的な対立が深まっていった。

 

 そして享徳3年(1454)12月に、公方足利成氏が管領上杉憲忠(のりただ)を謀殺(ぼうさつ)したことで、両勢力の対立は決定的となり、翌康正元年(1455)正月から両勢力による全面戦争が展開された。これを享徳(きょうとく)の乱という。

 

 この戦乱において、足利成氏(あしかがしげうじ)は下総古河(しもうさこが)城(茨城県古河市)を本拠にし、それにより古河公方と称された。上杉方は武蔵五十子(いかこ)陣(埼玉県本庄市)を本陣にし、ともに政権首都の鎌倉から離れた。しかも戦乱の継続により、関東全体の統治はおこなわれなくなり、結果として鎌倉府は崩壊した。

 

 開戦当初、上杉方は幕府の支援をうけて成氏に対抗した。また長禄2年(1458)には、幕府から新たな鎌倉公方として堀越(ほりごえ)公方足利政知(まさとも)が派遣されてきた。両勢力は利根川を挟んで古河と五十子で対峙したが、関東各地では両勢力による抗争が展開された。

 

 それにより下総・上総(かずさ)・安房(あわ)・武蔵東部・上野東部・下野(しもつけ)・常陸(ひたち)は成氏方、伊豆・相模・武蔵西部・上野西部は上杉方の様相を呈したが、それでも互いの勢力圏内には敵方に属す勢力も残存していて、抗争が繰り広げられた。

 

■太田道灌が長尾景春の乱を鎮圧 公方と幕府が和睦し乱が終結

 

 文明9年(1477)正月、山内上杉氏の重臣である長尾景春(ながおかげはる)が叛乱(はんらん)し、これにより上杉勢力は二分された。西関東各地では景春に味方する勢力が蜂起した。この戦乱を長尾景春の乱という。

 

 上杉方では、扇谷(おうぎがやつ)上杉氏の家宰(かさい)で武蔵江戸城主の太田道灌(おおたどうかん)を中心に景春方の追討を進めた。景春は古河公方足利成氏に帰属したことで、成氏方がこの戦乱に参入した。上杉方と成氏方は同10年正月に、上杉方が成氏と幕府の和睦成立を仲介することを条件に、和睦した。これにより上杉方は景春追討に専念し、同12年6月に景春を武蔵から没落させて、景春の乱をほぼ平定した。

 

 しかし、上杉方は成氏と幕府の和睦周旋をなかなか実行しなかったため、再び成氏方と上杉方の抗争が展開された。同時に和睦に反対する下総千葉氏に対しては、成氏と太田道灌が連携して追討にあたった。成氏と太田道灌による千葉氏攻撃は、文明18年まで断続的におこなわれた。

 

 その一方で成氏は、文明11年から、上杉方の有力勢力の一つ、越後上杉氏を通じて、独自に幕府との和睦交渉を展開した。そして同14年11月、室町殿足利義政は和睦を承認し、関東管領山内上杉顕定(あきさだ)に成氏との和睦実現を指令、同15年6月頃に上杉顕定が和睦条件を実行して、ようやく約30年におよんだ享徳の乱は終結をみた。

 

 しかし、それで関東における戦乱が終結したわけではなかった。成氏と太田道灌による千葉氏攻撃は続けられ、また上野東部では長尾景春と足利長尾氏による山内上杉氏への反抗が展開されていた。そうしたなか文明18年7月に、扇谷上杉定正(さだまさ)は家宰太田道灌を謀殺したのである。

 

監修・文/黒田基樹

『歴史人』202210月号「戦国武将の勢力変遷マップ」より)

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