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小田原攻めに遅参した政宗へ秀吉がかけた言葉とは?

戦国武将の領土変遷史②

遅参に激怒した秀吉は諸大名が居並ぶ中で叱責

石垣山城(神奈川県小田原市早川字)にある本丸跡。遅参した政宗は、石垣山城の普請場で小田原攻めの最中だった秀吉との謁見に臨んだといわれる。

 摺上原合戦で奥羽の覇者となった政宗だったが、天下人を目指す秀吉に対しても奥州産の名馬を贈るなど良好な関係を結ぶ努力も怠らなかった。

 

 だが、毛利輝元(てるもと)・上杉景勝(かげかつ)・徳川家康(とくがわいえやす)・島津義久(しまづよしひさ)を従わせた秀吉は、東北地方の諸将に対しても「惣無事令(そうぶじれい)」を命じた。

 

 この命令を無視する形で蘆名氏を滅ぼし会津地方を奪取した政宗は、敵対を続ける佐竹氏を挟み打ちするためにも関東・小田原の北条氏直との連携強化を目論んだ。同時に秀吉側近の浅野長政(あさのながまさ)・前田利家らにも接近した。和戦両様の構えを見せたのだった。

 

 一方、秀吉は北条討伐と東北制圧を睨んで、天正18年(1590)3月、小田原攻めに出陣した。総数20万とも21万ともいわれる大軍を関東に送り込んだ秀吉は、東北の諸将にも参陣を呼び掛けた。政宗は「北条か、秀吉か」の選択に迫られた。

 

 伊達家中には重臣・伊達成実(しげざね)など徹底抗戦派もいて、その説得も必要になった。そうした家中事情から小田原への出発は4月6日となった。ところが弟・小次郎や母・義姫との確執により出発は5月9日に延び、結局、小田原到着は他将より大分遅い6月5日になってしまったのである。

 

 4月3日から小田原城を包囲していた秀吉は、2カ月以上も遅れてやって来た政宗との謁見(えっけん)を許さなかった。浅野・前田らの詰問に政宗は遅参の理由について申し開きをし、9日になってやっと秀吉に目通りを許された。

 

 石垣山城の普請(ふしん)場に呼び出された政宗は諸大名が居並ぶ中で、秀吉から叱責された。この時、髪を水引で結び、白い死装束で臨んだ政宗の首に杖を当てた秀吉は「もう少し遅ければ、ここが飛んでいた」と威(おど)したという。

 

 政宗は秀吉から「会津攻めより以前のことは不問に付す」とされ、会津・岩瀬・安積(あさか)郡などは没収された。一命安堵の代わりに所領は減じられたのであった。

 

 秀吉はさらに、小田原開城後に奥羽の大名・国人に対して「参陣した者は服属とみなし、参陣しなかった者は処分」という「奥羽仕置(おうしゅうしおき)」を発した。

 

 その結果、葛西晴信(かさいはるのぶ)・大崎義隆(おおさきよしたか)・白河義親(しらかわよしちか)・石川昭光(いしかわあきみつ)・和賀義忠(わがよしただ)らの所領を没収し、蒲生氏郷(がもううじさと)に陸奥・越後12郡42万石を与え、木村吉清(よしきよ)・清久(きよひさ)父子に大崎・葛西旧領の12郡30万石を与えた。いずれも奥州監視の意味があった。

 

 この後、葛西・大崎の旧臣などによる一揆が起きる。成り上がり大名の木村父子の治世への不満と、太閤検地により特権を奪われる恐怖から加わった農民などによる一揆であった。

 

 木村父子を助けるため、政宗は蒲生勢と共に一揆鎮圧に乗り出すが「政宗こそが一揆を扇動した」という疑惑を持たれ、政宗は上洛して秀吉に申し開きをした。パフォーマンスを駆使した釈明の結果、政宗は助命されたが、伊達・信夫・田村・刈田(かった)・長井郡などを没収され、葛西・大崎領を加増された。政宗の石高は58万石(62万石とも)となった。

 

 一方、本領を安堵された南部信直(なんぶのぶなお)は、続発した九戸政実の反乱や和賀・稗貫(ひえぬき)一揆を鎮圧し、和賀・稗貫・志和(しわ)の3郡を与えられた。また津軽為信も津軽地方の所領安堵を許された。為信が「津軽」を名乗るのはこの後である。

 

監修・文/江宮隆之

『歴史人』202210月号「戦国武将の勢力変遷マップ」より)

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