×
日本史
世界史
連載
ニュース
エンタメ
誌面連動企画

秀吉を格下と侮った柴田勝家のプライド

「偉人の失敗」から見る日本史⑬

筆頭家老のプライドが邪魔をした?

北ノ庄城址(福井県福井市)にある柴田勝家像。北ノ庄城址にある柴田公園には、かつて柴田勝家が築城した北庄城の天守があったとされている。

失敗のケーススタディ

 

◆明智光秀討伐の功績を秀吉に奪われたのはなぜ?

◆なぜ清洲会議で主導権を握れなかったか?

◆なぜ賤ヶ岳の戦いで敗れたのか?

「鬼柴田」と呼ばれた猛将・柴田勝家(しばたかついえ)は、織田信秀(のぶひで)の代から仕えたが、織田家の後継問題(信長と弟・信勝の争い)で信長に敵対した過去もあった。その後、六角承禎(ろっかくしょうてい)討伐戦や浅井・朝倉攻め、越前の一向一揆掃討戦などに武功を挙げ、信長の信頼を得た。武将個人としての力量も、軍団指揮官としての能力も高かった。

 

 天正3年(1575)、越前一国を与えられた勝家は「北陸方面司令官」として、佐々成政(さっさなりまさ)・前田利家(まえだとしいえ)・不破光治(ふわみつはる)らの有力武将を与力に従えて加賀・能登・越中へ侵攻していたが、謙信亡き後の上杉勢を圧迫し始めた矢先の天正10年6月、本能寺の変が起きた。上杉景勝(うえすぎかげかつ)と対陣していた勝家は、信長の弔い合戦(明智討ち)に間に合わず、山崎合戦での勝利という最大の功績を羽柴秀吉に奪われてしまった(第1の失敗)。それでも勝家は長浜周辺を制圧して、勝家らしい誇りを見せた。

 

 だがこの年の10月、今後の織田政権について協議する「清洲(きよす)会議」(家臣団からは丹羽長秀/にわながひで・池田恒興/いけだつねおき・秀吉・勝家が出席)に、織田家筆頭として参加したがリーダーシップを取れずに終わった。会議をリードする秀吉に対して勝家は「格下意識」をもって臨んだ。織田家後継者として、勝家は信長の3男・信孝(のぶたか)を推したが、秀吉は筋目論から信長嫡孫(信忠/のぶただ/嫡男)の三法師(さんぽうし/後の秀信/ひでのぶ)を主張した。秀吉の功績を認める丹羽・池田は三法師支持に廻った。

 

 筆頭家老であることに自信を持ち、秀吉を格下と侮(あなど)ったことや丹羽などへの根回しをしなかった(第2の)失敗が、秀吉の後塵を拝する結果につながった。さらに、勝家の高慢な性格も反感を買った。国割りも含め不満な結果となった清洲会議であった。この後、勝家・秀吉のふたりは一気に決着戦に突っ走る。

 

 天正11年3月、雪解けを待って出陣した柴田軍2万8000は、秀吉軍2万5000と睨み合いになった。先鋒の勝家の甥・佐久間盛政(さくまもりまさ)は余呉湖畔(よごこはん)の大岩(おおいわ)城を落とした勢いに乗って、秀吉が岐阜城攻撃に向かっている最中の賤ヶ岳(しずがたけ)制圧を企図した。だが秀吉は「岐阜からの大返し」を成功させた。驚いて撤退に入った柴田軍に襲いかかる秀吉軍。いわゆる「賤ヶ岳の七本槍」の合戦である。

 

 この時、盛政勢の背後に布陣していた前田利家・金森長近(かなもりながちか)が秀吉との密約によって撤退したことから柴田軍は総崩れとなった。その後、勝家は北ノ庄(きたのしょう)城に戻り籠城し、結局自刃して果てた。(清洲会議を含め)勝家の失敗は、情報に疎(うと)く、自尊心ゆえに同僚や与力などの心をつかむ努力に欠けていたことであった。

 

監修・文/江宮隆之

『歴史人』20219月号「しくじりの日本史」より)

KEYWORDS:

過去記事

歴史人編集部れきしじんへんしゅうぶ

最新号案内

歴史人 2022年9月号

連合艦隊の真実

世界の列強と互角の軍事力を有するため、日本海軍が明治27年に設立した「連合艦隊」は、優れた機動力と策略で、清国やロシアを圧倒する。しかし「大艦の時代」から「航空機の時代」へ移り変わるなかで、その威容は徐々に衰えを見せ始める。かつて世界有数の軍事力を誇りながら、太平洋戦争で最期を迎えた連合艦隊の軌跡を追う。