信長を侮った今川義元の過信
「偉人の失敗」から見る日本史⑧
自らが乗る輿(こし)が目印となると迂闊(うかつ)にも気づかなかった

桶狭間古戦場公園(愛知県名古屋市)に建つ今川義元の銅像。桶狭間で敗戦するイメージが強いせいか、義元というと「暗愚」という印象がつきまとう。だが、その実像は「海道一の弓取り」と呼ばれ、外交手腕にも長けていた。
失敗のケーススタディ
◆北条氏との関係が悪化したのはなぜか?
◆大兵力を有しながら桶狭間で敗れたのはなぜ?
◆見通しの悪い桶狭間で休息したのはなぜ?
今川義元(いまがわよしもと)は、駿河の戦国大名今川氏親(うじちか)の子である。氏親の死後、家督を継いだ嫡男氏輝(うじてる)が早世したことで家督争いが生じると、義元は相模の北条氏の支援を受けて家督を継いだ。
当主になった義元は、それまで対立していた甲斐の武田氏との和睦を図るため、武田信虎(たけだのぶとら)の娘を正室に迎えて同盟を結ぶ。しかし、そのために、武田氏と対立していた北条氏と絶縁することとなってしまった。今川氏との断交に踏み切った北条氏綱(ほうじょううじつな)は、今川氏の領国である駿河に侵入し、富士川以東を制圧する。これは、義元が「河東一乱(かとういちらん)」と呼ぶほどの波乱を巻き起こしたのである。
遠江を押さえていた義元は、さらに西への進出を目指していたが、そのためには北条氏との関係を修復しておかなければならない。そこで、北条氏康(うじやす)・武田信玄(しんげん)と三国同盟を締結するにいたった。この同盟は、甲相駿三国同盟などと呼ばれている。
こうして背後を固めた義元は、駿河・遠江の支配を子の氏真(うじざね)に委ねると、自ら三河から尾張の制圧に乗り出した。義元は尾張東部の大高城と鳴海城を橋頭保(きょうとうほ)にしようとしたが、これに対し、織田信長はその周囲に付城を築く。このため、義元は自ら尾張に出陣し、大高城と鳴海城をまずは解放しようとしたのである。
永禄3年(1560)5月12日、自ら大軍を率いて尾張に出陣した義元は、18日には尾張の沓掛城(くつかけじょう)に入った。沓掛城は、尾張と三河の国境近くにあり、尾張進出を図る今川方の前線基地となっていたためである。
5月19日の早暁、義元はまず、大高城の付城である丸根砦と鷲津砦を陥落させた。これにより、大高城は織田方の包囲から解放されたことになり、戦況を知らされた義元は、ようやく沓掛城を出陣している。どうやら義元は、大高道を通ってひとまず大高城に入ったあと、鳴海城を救援しようとしていたらしい。そして、鳴海城を解放したあとは、鳴海城を拠点として尾張の制圧を図るつもりであったのだろう。
それはともかく、大高城に向かう途中、義元が率いる今川軍の本隊は、昼頃に桶狭間へ着陣した。狭間というのは、谷あいの地のことであり、義元は山の上に本陣を構えている。史料には「桶狭間山」とあるが、単に桶狭間にある山という意味でしかないため、これが実際にどの山を指しているのかは残念ながら断定されていない。桶狭間は、山と谷が入り組んだ地形であり、当時から見通しはあまりよくなかったようである。
義元としても、できれば見通しのよい開けた場所に本陣を置きたいと考えてはいたのだろう。しかし、沓掛城から大高城にかけての一帯は、いずれも見通しのよい場所は存在しなかった。「桶狭間山」は、そうしたなかでも、最も高地に位置していたのだろう。山の上であれば、少なくとも低地よりは安全である。
今川軍の総数は2万から2万5000、織田軍の総数は2000〜5000ほどともいわれる。確かな人数は不明ながら、今川軍が数で圧倒していたのは間違いないところである。義元は、その軍勢の多さからしても、本陣が襲撃されるとは予想だにしていなかったにちがいない。
とはいえ、合戦の勝敗は、軍勢の数だけで決まるわけではなかった。今川軍は、桶狭間一帯に兵力を分散させており、本陣は手薄だったとみられる。織田信長が桶狭間へと進むころ、突如として天候が変わり、豪雨となった。こうして視界が悪くなった状況を利用し、義元の本陣に近づいたと考えられる。雨は午後2時頃にはあがり、晴れ間も見えた。この時をねらった織田軍に本陣を襲撃されてしまったのである。
織田軍が今川軍の本陣を突き止めることができたのは、義元が輿で移動していたためである。輿に乗ることができるのは室町幕府の許可を得た特権であり、義元はそれを誇示しようとしていたのだった。もし輿で移動していなければ、討ち取られることはなかったのではあるまいか。
監修・文/小和田泰経
(『歴史人』2021年9月号「しくじりの日本史」より)