幕府の権威回復を図った足利義政の失策
「偉人の失敗」から見る日本史⑥
守護家の家督相続争いをやめさせる力がなかった

相国寺(京都府京都市上京区今出川通)にある足利義政の墓。時代は異なるが、藤原定家、伊藤若冲という二人の文化人の墓とともに並んでいる。
失敗のケーススタディ
◆応仁の乱を起こしてしまったのはなぜ?
◆家督相続で混乱をもたらしたのはなぜ?
◆「享徳の乱」をなぜ鎮圧できなかったのか?
足利義政(あしかがよしまさ)は室町幕府の6代将軍足利義教(よしのり)の子である。嘉吉元年(1441)のいわゆる嘉吉(かきつ)の乱で義教が横死し、7代将軍となった同母兄の義勝(よしかつ)が早世したため、8代将軍となっている。嘉吉の乱により、幕府の権威が失墜した時期に将軍となったわけで、就任当初から成功が約束されていたわけではない。
義政の父・義教は、将軍権力を盤石にするため、守護家の家督相続に介入していた。その反動から、義政が将軍になった頃には、守護家では一族や家臣との争いが頻発していた。享徳3年(1445)、鎌倉公方(くぼう/後の古河公方)の足利成氏(しげうじ)が関東管領上杉憲忠(うえすぎのりただ)を暗殺したことにより、関東では享徳の乱が勃発する。
このとき、義政は、異母兄の政知を鎌倉に派遣するとともに、越前のほか尾張・遠江の守護を兼ねる斯波義敏(しばよしとし)に関東への出兵を命じた。足利成氏を追討したうえで、政知を鎌倉公方として君臨させようとしたのである。しかし、越前で守護代の甲斐常治(かいじょうち)と対立していた斯波義敏は兵を動かすことができず、幕府による足利成氏追討は頓挫してしまう。
男子に恵まれていなかった義政は、寛正5年(1464)、異母弟の義視(よしみ)を後嗣としたのだが、翌年には正室日野富子(ひのとみこ)との間に義尚(よしひさ)が生まれた。おそらく、義政自身は、義尚が成長するまでは義視に幕政を委ねるつもりでいたのであろう。しかし、義政の近臣で義尚の傅役となっていた政所執事(まんどころしつじ)の伊勢貞親(いせさだちか)は、自らの権力基盤を失うことを恐れ、義視を排除しようと画策した。これに、義尚の生母である日野富子が乗せられる形となり、将軍家は家督相続で混乱してしまうのである。
また、家督相続の混乱は、将軍家だけでなく、管領家である畠山(はたけやま)・斯波の両氏をはじめ、有力守護家にも及んでいた。その頃、幕府では細川勝元(ほそかわかつもと)と山名宗全(やまなそうぜん)が勢力を二分しており、内紛を抱える守護家では、それぞれ細川勝元か山名宗全に支持を求め、その対立が応仁の乱を引き起こしてしまったのである。
このとき、義政は、どちらか一方に肩入れすることで、対立をやめさせようとした。しかし、義政自身は、対立をやめさせるだけの軍事力を保持していたわけではない。そのうえ、場当たり的な対応も多かったため、誰しもが納得できるような仲裁は期待できなかった。
義政が、なんとか対立を収めさせようとしていたのは間違いない。しかし、その考えは、独断的で場当たり的なものだったのだろう。結局、義政がいくら笛を吹いたところで誰も踊らなかったのである。
監修・文/小和田泰経
(『歴史人』2021年9月号「しくじりの日本史」より)