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鎌倉幕府を創設した源頼朝の失敗【後編】

「偉人の失敗」から見る日本史④

感謝と愛情が一転すると強烈な怒りや憎しみに

伊豆に配流された約20年後、34歳の時に挙兵。日本で初めて武家政権を樹立し、不動の地位を築いた。
東京国立博物館蔵/Colbase

源頼朝の失敗のケーススタディ

 

◆源氏が3代で滅んだのはなぜ?

◆平治の乱で敗れたのはなぜ?

◆忠臣だった上総広常を殺してしまったのはなぜ?

 元暦元年(1184)から翌年にかけての西海道への遠征は、長く困難な戦いを強いられた。頼朝は弟範頼に細々と戦略を指示するとともに、「千葉常胤は合戦で戦功をあげているので大切にせよ」とか、「小山の者どもはいとおしくせよ」などと名前をあげて労うようにと指示している。この頃には、武家棟梁としての実力も備わっていたが、家人たちへの対応は変わることなく、感謝と愛に満ちていた。

 

 しかし、「うざい」「いたい」ほどの感謝と愛は、裏切られたときには一転して強烈な怒りと憎しみに転じる。平家が壇ノ浦に滅びて間もなくの頃、上洛していた家人たちの自由任官が発覚した。本来は主人である頼朝を介して朝廷から官職を拝領するのが筋だが、戦乱に乗じて身分不相応の官職を得たものがいたため、頼朝の逆鱗に触れたのである。

 

 24名の家人、1人ひとりに「眼はネズミのよう」「しわがれ声ではげ頭」「大嘘つき」など悪口を書き連ねている。特徴を細かに捉えていることから、日頃から家人によく目を懸けていたことが分かる一方、神経質で感情的な性格がよくよく表れている。上総広常(かずさひろつね)は源家譜代の家人であり、挙兵以来の功臣であったが、謀叛の疑いありとして謀殺してしまった。後に謀叛の心などなく、ひとえに頼朝への忠誠を貫いていたことを知ると大いに反省し、親族の名誉を回復させている。これも神経質な面と愛情深い面とが表裏していることの表れである。

 

「うざい」「いたい」程の愛は家族にも向けられる。妻政子には全く頭が上がらなかったのもこのためだろう。何人も愛人をこしらえながらも、その子供たちを世に出さなかったのは、挙兵前から頼朝を支えてくれた政子への感謝と愛が、揺るぎないものであったことを示している。

 

 政子出生の子供達へも惜しみない愛情を注いだ。建久4年(1193)嫡子頼家が富士巻狩で12歳にして鹿を射止めると、巻狩は直ちに中止され祝賀会へと転じた。さらに頼朝は喜びのあまり、わざわざ使者を政子に送り知らせた。政子からは武将の嫡子であれば当然とたしなめられる始末である。

 

愛情のあまり愛娘・大姫の許嫁を討手に殺害させる

 

 頼家の姉大姫(おおひめ)への愛情はさらに強く偏執的にすら感じる。大姫は若くして木曽義仲(きそよしなか)の子義高許嫁(いいなずけ)となるが、義仲の没落に伴って義高も暗殺の危機に陥る。大姫は義高の身を案じて逃そうとするが、入間川の河原で頼朝の討手に殺害されてしまう。これを聞き知った大姫は、ショックのあまり飲食も喉(のど)を通らぬ有様となり病に伏した。政子は「いくら命令とはいえ、なぜ大姫に知らせて善処しなかったのか」と義高を討った堀親家(ほりちかいえ)の郎従(ろうじゅう)の思慮(しりょ)のなさを責める。頼朝は政子の譴責(けんせき)に堪えかね、ついには討手を斬罪(ざんざい)に処した。自分が命じて殺害させたにもかかわらずである。

 

 おそらく頼朝が義高を討ったのも、大姫を謀反人の子などにやれるかといった気持ちからであろう。頼朝は大姫を愛するあまり、より誤った方向に進んでいったようにみえる。

 

 建久6年、大姫と政子を連れて上洛した頼朝は、権力者であった丹後局(たんごのつぼね)らに大姫を引き合わせ、後鳥羽天皇への入内(じゅだい)工作を試みている。病は小康状態と悪化を繰り返しており、大姫には大きなストレスとなったに違いない。建久8年、わずか20歳で生涯を終えた背景として、頼朝の強引な入内工作へのストレスを考えるのは妥当だろう。

 

 建久6年の上洛では、嫡子頼家も同道している。やはり後鳥羽天皇に謁見させ、御剣を賜るなど後継者頼家の権威を王権で飾り、さらに鎌倉への帰路東海道では、道々、東海道地域への頼家のお披露目をし、頼家への権力継承を進めている。

 

 頼朝が晩年に心血をそそいだのは、息子・娘の将来へ道筋をつけることであった。しかしそれはことごとく裏目に出た。大姫はその後義高への想いに代わる愛は見いだせなかったし、頼家はお坊ちゃま気質がたたり、早々に将軍の地位を失い伊豆修善寺で非業の最期を遂げる。3代将軍であった実朝も甥公暁により暗殺され、源家将軍は3代で終わる。これらはピュアではあるが、偏った頼朝の愛情が導いた悲劇と言えるのではないだろうか。

 

監修・文/菱沼一憲

『歴史人』20219月号「しくじりの日本史」より)

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