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武家政権を確立した平清盛の失敗とは?【後編】

「偉人の失敗」から見る日本史②

最大の誤算だった高倉天皇の崩御

清盛は平家一門の武運長久を祈願し、写経の際に自らの血を点じたという。「平清盛」歌川国芳筆(都立中央図書館蔵)

平清盛が犯した失敗のケーススタディ

 

◆平家一門が短期間で滅んだのはなぜ?

◆後白河上皇と対立したのはなぜ?

◆福原への遷都を強行したのはなぜ?

 清盛にはこの一門の行く末が予想できていたのであろうか。まさか最愛の孫である安徳天皇が千尋の海に没し、惣領宗盛(むねもり)をはじめ一族のほとんどが梟首(きょうしゅ)・討死という大惨事にいたるとは思ってもいなかったろう。

 

 しかし政権が瓦解(がかい)してゆく兆(きざし)は感じていたはずだ。最も大きな誤算は、治承5年正月、高倉院が20歳の若さで没したことである。娘聟(むすめむこ)の高倉院を治天君(ちてんのきみ)に据え、外孫安徳による新体制を安定運用してゆく、これが清盛の方針であった。以仁王の挙兵や地方での反乱の動きはあったが、高倉・安徳体制を安定させることで乗り切れると考えていたのであろう。でなければ福原遷都など強行するはずがない。

 

 ところが政権の柱である高倉の、あっという間の崩御である。清盛は高倉・安徳体制を創出するため、強引に後白河院政を停止させ、さらには鳥羽殿へ幽閉していた。高倉の早世という危機に直面し、それが大きな失策に転じてしまった。

 

 焦った清盛は、後白河との関係修復を試みて、なんと自分の娘で高倉院の中宮であった徳子を院の后に入れようとする。もちろん徳子はこれを拒絶し、それでも諦めない清盛は、厳島神社の巫女(みこ)に生ませた女子を代わりに院へ差し出している。これより先、維盛を大将軍とする東海道討軍が東国の反乱軍に大敗すると、周囲の意見を容れて平安京に還都する。平家の軍事的な優位性が失われつつある危機感からであろう。清盛は高倉・安徳体制を完成させるため福原遷都を強行したが、これもやはり裏目に出てしまったのである。

 

武士を組み込んだ新たな軍事体制を確立できず

 

 高倉院の崩御(ほうぎょ)という危機に直面した清盛が頼ったのは、後白河院の権威、王権の復旧であった。本来、鎌倉幕府の成立という歴史の流れからすれば、守護地頭制など地方武士を取り込み武力として編成してゆくための軍事体制・治安維持機構が必要であった。頼朝は挙兵後数ヶ月の間に長大な侍所(さむらいどころ)を建造し、そこに300名以上の関東武士を集めて武力組織とした。富士川の合戦に勝利をもたらしたのはこの軍事力である。

 

 対して平家政権は、幕府のように将軍のもとに御家人が一元的に支配されるわけでなく、清盛はじめ頼盛・重盛・宗盛・知盛(とももり)など一族が個々に家人を抱え、また検非違使(けびいし)などとして朝廷にも仕えるなど、主従関係の一元化もなされていない。また兵士も狩武者と称される徴兵制度に依存したため戦意に乏しかった。

 

 こうした武力システムの違いにより、重衡・維盛などは高位高官でありながら、自ら出陣し軍事を担わなくてはならなかった。頼朝は初戦の山木攻めをはじめ、ほぼ家人に任せている。土肥実平(どいさねひら)・和田義盛・千葉常胤(ちばつねたね)など、あまたの修羅場をくぐり抜けた戦争のプロたちである。女房らと戯れていた貴族が対抗すべき術があろうか。

 

 治承4年10月、東海道追討使として富士川へ布陣した維盛軍へ、敵対する甲斐源氏の武田信義から手紙が届く、「ひごろよりお目にかかりたいと存じておりましたが、ご下向とのこと幸いです。戦場でお会いしましょう」。この無礼な挑発に対し、維盛はその場で使者の首を刎(は)ねた。戦場での法だそうである。維盛が王権の世界から修羅の世界へ引きずり込まれた瞬間である。清盛が王権に頼る旧態依然とした軍事体制から脱皮できなかったつけが、平家一門にまわってきたといえよう。

 

監修・文/菱沼一憲

『歴史人』20219月号「しくじりの日本史」より)

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