武家政権を確立した平清盛の失敗とは?【前編】
「偉人の失敗」から見る日本史①
戦乱の時代に翻弄された重衡と維盛

清盛は平家一門の武運長久を祈願し、写経の際に自らの血を点じたという。「平清盛」歌川国芳筆(都立中央図書館蔵)
平清盛が犯した失敗のケーススタディ
◆平家一門が短期間で滅んだのはなぜ?
◆後白河上皇と対立したのはなぜ?
◆福原への遷都を強行したのはなぜ?
平家物語は一門の滅亡を「諸行無常(しょぎょうむじょう)、盛者必衰(じょうしゃひっすい)」と表現する。その最も端的な体現者は平重衡(たいらのしげひら)であろう。
重衡は清盛と時子の末っ子である。一ノ谷の合戦で捕虜となり、京都の大路を渡され、鎌倉で頼朝の尋問を受けた。さらに重衡に焼き討ちされた南都東大寺・興福寺(こうふくじ)の衆徒らの要請により、身柄は南都に引き渡された。
南都を焼き討ちした仏敵法敵である重衡の処分について、東大寺・興福寺の周りを引き回した上で、ノコギリ挽きなど残虐な手段で処刑しようという強硬意見も出た。しかし僧侶として死刑を執行するというのは穏便ではないとされ、武士に処刑させ首のみ受け取り、奈良坂(ならざか)の般若寺(はんにゃじ)の大鳥居の前に釘付けにしてさらした。南都焼き討ちの際、重衡はこの場所にうち立って伽藍(がらん)を焼き滅ぼしたといういわくつきの場所である。衆徒たちの意趣返しというわけだ。
南都の衆徒たちにとって重衡は、天平以来の大伽藍、尊い仏像を焼き払い、多くの僧侶を殺害した極悪人であるが、理知的でスマートな好青年という一面もある。むしろこちらの方が本来の姿であろう。平家一門、それも正室の時子の子として高倉天皇の蔵人(くろうど)、中将となり、国母建礼門院(けんれいもんいん)徳子の弟として安徳新帝を支える立場にあった重衡は、エリート中のエリート、将来の平家政権を担うべき存在であった。それでいて気さくで、ときは泥棒のまねをして女房たちを怖がらせ戯(たわむ)れるなど、気の利いた振る舞いで女房たちにも人気が高く、当代きってのモテ男でもあった。
そんな彼の弟分が甥の維盛(これもり)である。同じく安徳新帝の蔵人で、高倉院近くに仕える。重衡に比べて線が細い感じはあるが、後白河院五十御賀(いそじのが)の宴で青海波(せいがいは)を舞い、その美しさはまさに光源氏とたたえられた。
治承4年(1180)、関東に蜂起した頼朝勢力を追討するために東海道に派遣された官軍の大将軍をつとめるが、水鳥の羽音に驚き戦わずして敗走し、清盛から大いに叱責される。そして一ノ谷の合戦後には、平家一門から離脱し那智の海に入水するという悲劇的な最期を遂げる。
2人は高倉院政権を政治的に支えるとともに、王室サロンの中核として、時に後宮の女房たちと戯れるセレブな存在であったが、いつしか血なまぐさい戦乱に巻き込まれてゆく。
内乱の口火を切った以仁王(もちひとおう)の乱にあっては、院・内裏に伺候(しこう)していた両人は、恐怖におびえる貴族・女房たちをしり目に鎧を纏い、さっそうと騎乗し出陣していった。まさにヒーローである。この後、重衡は墨俣(すのまた)の合戦でも源行家(みなもとのゆきいえ)軍を追い散らすなど戦果をあげ、常勝将軍と称された。南都焼き討ちもそうした戦功の一つであった。
重衡・維盛はもちろん武家であり、武人ではあったが、すでに彼らは武功によって出世を果たすのではなく、院や天皇に近仕し高位高官を目指す地位にあった。戦乱で武功をあげたのも、必ずしも本意ではなかったろうし、ましてや誰がすき好んで南都の仏閣仏像を焼き払おうとするだろうか。彼らは戦乱という時代のうねりに翻弄され、望まざる修羅場へと押し流されていったのである。
監修・文/菱沼一憲
(『歴史人』2021年9月号「しくじりの日本史」より)