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勇将・山名宗全が犯した失策

「偉人の失敗」から見る日本史⑦

細川勝元とは進んで敵対したわけではない

山名宗全が創建させたと伝わる竹田城(兵庫県朝来市)。雲海に浮かぶ「天空の城」として、人気を集めている。

失敗のケーススタディ

 

◆足利義政と対立したのはなぜか?

◆細川勝元と対立したのはなぜか?

◆西軍に勝利を呼び込めなかったのはなぜか?

 山名宗全(やまなそうぜん)は、諸国の武士を統括する侍所(さむらいどころ)の頭人(とうにん/所司)に任ぜられていたこともあるだけに、武将としての評価は高かった。嘉吉元年(1441)の嘉吉の乱で、6代将軍足利義教を討った赤松満祐(あかまつみつすけ)を追討したのも宗全である。嘉吉の乱後、山名氏は赤松氏の遺領も継承し、細川・畠山両氏に次ぐ地位を占めるに至った。

 

 ただ、宗全自身は、急速な勢力拡大がいい結果をもたらさないことをよく理解していたらしい。養女を細川勝元に嫁がせるなどして、山名氏と細川氏との関係を良好に保とうとしているのである。管領家である細川勝元と対立することは念頭においていなかったのであろう。

 

 このように戦略家であった宗全も、とかく赤松氏のこととなると、一切の妥協をしなかった。嘉吉の乱が終わっているにも関わらず、将軍足利義政の命令を無視して赤松満祐の甥にあたる赤松則尚(のりひさ)を追討しようとしている。

 

 そのため、将軍である足利義政とは赤松氏への対応をめぐって対立することとなり、享徳3年(1454)、逆に山名氏が幕府から追討を受けることになってしまったのである。これにより、宗全は蟄居(ちっきょ)を余儀なくされたが、細川勝元の仲介で幕政への復帰を果たしている。

 

 そのようなわけで、宗全は細川勝元には感謝していたに違いない。しかし、長禄2年(1458)、赤松満祐の弟の孫にあたる赤松政則(まさのり)が南朝から神璽(しんじ)を奪回した功績で赦免されると、赤松氏の名誉回復を図ろうとする細川勝元とも対立するようになってしまう。

 

 そしてついに、畠山氏における家督争いが激化するなか、将軍義政の側近伊勢貞親と組んで畠山政長(まさなが)を支持した細川勝元に対し、宗全は畠山義就(よしひろ)を支援して袂(たもと)を分かったのである。これが、このあと11年間にわたって続くことになる応仁の乱の直接の引き金となった。

 

 こうして宗全は西軍の総帥として東軍の細川勝元と戦うことになったのだが、幕府を押さえている東軍に対し、劣勢であったことは否めない。そのため、宗全は幕府と対立する関東の古河公方足利成氏と結んだり、義政の弟義視を陣営に迎えたりしたが、東軍の正統性を克服することはできなかった。

 

 また宗全は、とかく自分の意見をすべて正しいと判断し、他人の意見を聞かないところがあったらしい。その結果、宗全の子である山名是豊(これとよ)が父と対立して東軍につくなど、宗全は一族すらまとめきれていなかった。

 

 軍事的な才能には恵まれていたようであるが、政治的な駆け引きは、細川勝元のほうが一枚上手だったようである。

 

監修・文/小和田泰経

『歴史人』20219月号「しくじりの日本史」より)

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