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天下布武を目指した織田信長の焦慮

「偉人の失敗」から見る日本史⑩

家臣、同盟者──すべてが敵になりえた信長の周囲

清洲公園(愛知県清須市)にある織田信長像。信長は光秀をはじめ、秀吉、勝家らが裏切らないことを前提にして基本方針を定めて行動したが、結果として本能寺の変が勃発するところとなった。

失敗のケーススタディ

 

◆本能寺にほぼ丸腰で泊まったのはなぜ?

◆明智光秀、荒木村重、松永久秀など多くの家臣に裏切られたのはなぜ?

◆朝廷に対して高圧的な姿勢で臨んだのはなぜ?

 織田信長は、時代の最先端を疾駆し、天下布武(てんかふぶ)を実現へと導きつつあった「成功者」として評価される。だが、明智光秀の謀叛(むほん)により、本能寺で自害を遂げるという悲劇的終幕からすれば、「敗者」として位置付けることもできる。

 

 信長は、柴田勝家(かついえ)、羽柴秀吉(はしばひでよし)、そして光秀を家臣として積極的に登用し、重要な任務を与えることにより、自身が目標とした天下布武を強力に推進しようとした。適材適所の人事管理は、現代社会にも通用する先進性を示す一方、功労者であっても使い物にならないと判断すれば、ばっさりと切り捨てる非情な一面もあった。

 

 また、敵対勢力を利益誘導によって味方に引き入れても、約束を実行せず、状況が変化すれば、領地を取り上げようと目論んだ。その身勝手な行動原則と、コンプライアンスの無視は、多くの反発を生み、妹婿の浅井長政(あざいながまさ)に背かれたのをはじめ、松永久秀、荒木村重(むらしげ)、別所長治(ながはる)らが謀叛を起こした。その結果、謀叛の鎮圧のため、多大な労力と歳月が費やされ、多くの人命が失われた。

 

 天正10年(1582)6月2日、本能寺に宿泊中の信長は、明智軍の攻撃を受け、覚悟の自害を遂げた。本能寺の変前夜において、光秀は、京都に近い坂本城主や亀山城主を務めており、畿内一円を防衛する司令官の座にあった。信長は、光秀によって周囲の安全は保たれているという安心感から、わずかな護衛を引き連れ、丸腰に等しい状態で上洛した。にもかかわらず、その光秀が叛旗を翻したのだから、「是非(ぜひ)もなし」という最期(さいご)の一言を残して自害することを余儀なくされたのだった

 

 光秀の謀叛を起こした原因については、多くの謎が残される。だが、信長の過酷な人事管理が光秀を謀叛へと追い込んだことは否定できず、あまりにも自己中心的な行動原則が自滅への起爆剤となった。

 

光秀がやらなければ誰かが信長を討ち取った

 

 信長は、秀吉、勝家、そして光秀を競わせることにより、版図(はんと)を驚異的なスピードで拡大させ、天下布武を達成しようとした。

 

 天正10年5月、光秀は、信長から中国方面への出陣を下命された。このころ、秀吉は備中(びっちゅう)高松城を水攻めにし、対毛利戦を優位に進めていた。もしも、信長の命令通り、中国方面へ移動すれば、ライバル秀吉の指揮に従うことを余儀なくされた。それは、プライドを傷つけるだけではなく、織田軍団の組織図において秀吉よりも下位に組み込まれることを意味した。

 

 光秀が謀叛を起こさなければ、秀吉をはじめ、ほかの誰かが信長を亡き者にしようとしたのではなかったか。信長は、神に等しい絶対的なリーダーではなく、ヒステリーな専制君主に等しい存在へ化していったともいえよう。

 

 信長は、朝廷という古い権威から脱却するため、革命的行動を視野に入れていたとも提起される。だが、本能寺前夜の段階において、朝廷への強硬策は時期尚早であり、高圧的態度を示しながらも、太政大臣(だじょうだいじん)就任により、朝廷の権威を逆に利用し、対立勢力を「征伐(せいばつ)」する大義名分としようとした。

 

 信長は、山陽方面の毛利攻めだけではなく、北陸方面の上杉攻めや、四国方面の長宗我部(ちょうそかべ)攻めを進行させつつあった。三方面作戦の同時進行には無理があったものの、太政大臣就任というアドバルーンを掲げることにより、すべての戦線を優位に進めるという戦略的意図があった。だが、朝廷や天皇をも巻き込んだ天下布武への基本戦略は、光秀の謀叛によって潰え去ったのだった。

 

 現代人は、信長に対して、理想のリーダー像やトランスフォーマー(変革者)としての姿を期待する。だが、武田攻めに勝利してから、本能寺の変前夜へ至る経緯を分析してみると、何かに取り憑かれたように、天下布武を一気に達成しようとする姿が読み解ける。信長は、焦慮(しょうりょ)と油断から、墓穴を掘ったように思え、敗者としての教訓が現代に提起される。

 

監修・文/外川淳

『歴史人』20219月号「しくじりの日本史」より)

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