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紙切れ1枚で武将たちを動かそうとした足利義昭の欺瞞

「偉人の失敗」から見る日本史⑫

「権威」に固執しながら、もはや「権力」を失っていた将軍

足利義昭が居城とした二条城の跡地。義昭は当初、他の場所を仮の御所としていた。しかし襲撃などがあったため、永禄12年(1569年)に信長が防備が整った本格的な城として義昭のために築城した。

失敗のケーススタディ

 

◆なぜ織田信長と決裂したのか?

◆信長包囲網はなぜ破綻したのか?

◆なぜ明智光秀、細川幽斎など有力な家臣を失ったのか?

 15代足利将軍・足利義昭(あしかがよしあき)とは「徒手空拳(としゅくうけん)で武士の最高位に上り詰めた男」であり「御教書(みぎょうしょ)・御内書(ごないしょ)という紙切れ1枚で数多ある戦国武将たちを動かそうとした男」であった。

 

 義昭は天文6年(1537)11月、12代将軍・義晴(よしはる)の二男に生まれた。兄は13代将軍・義輝(よしてる)である。6歳で大和・興福寺(こうふくじ)の一乗院(いちじょういん)に入り「覚慶(かくけい)」と名乗った。義昭はこのまま僧籍として道を歩むことになっていたが、永禄8年(1565)兄の将軍・義輝が三好三人衆(みよしさんにんしゅう)によって殺されたことから、身の危険を避けるために逃げ出した。

 

 近江国甲賀・和田惟政(わだこれまさ)、越前・朝倉義景(あさくらよしかげ)を頼った後に、織田信長の支援によって上洛を遂げ将軍位に就いたのが永禄11年10月であった。

 

 義昭には足利幕府の奉公衆という家臣団があり細川藤孝(ほそかわふじたかし/幽齋/ゆうさい)・三渕藤英(みつぶちふじひで/藤孝の兄)などがいた。さらに越前で明智光秀(あけちみつひで)が家臣団に加わった。将軍となった義昭は喜びの余り、信長を「御父(おんちち)」とまで呼んだほどであった。

 

 だが、将軍位に就いた直後から信長との関係がねじれ始め、「信長との決裂」につながっていく。その一因は義昭が三好三人衆など敵対勢力を恐れるあまり、信長の実力を過小評価したためだった(第1の失敗)。

 

 実情を認識できない・先見性のなさという義昭の性格もあった。目が曇っていた義昭は「信長だけでは安心できない」として、御教書・御内書を頻発した。それが甲斐・武田信玄(たけだしんげん)、越後・上杉謙信(うえすぎけんしん)、周防・毛利元就(もうりもとなり)など遠国の実力者への「上洛・救援要請」であった。こうした義昭の行為を信長は許せなかった。それが信長から義昭への「五ヶ条覚書」や「異見十七ヶ条」になっていく。

 

 義昭は「反信長」的な感情を募らせた結果、「信長包囲網」を敷こうとした。信玄・謙信の他に朝倉義景・本願寺・顕如(けんにょ)などとも結んでの反転攻勢であった。だがこの包囲網も、元亀4年(天正元年・1573)4月に上洛途上の信玄が病死したことが一因となり、空中分解する(第2の失敗)。

 

 この前後、義昭の足利幕府と信長とに両属していた光秀・藤孝が義昭から離脱して信長の家臣になった。義昭の家臣であり続けることでの将来性への不安、信長政権での安定がその根底にあった。つまり「兵力や所領を持たない」という義昭の限界を見限ったのである(第3の失敗)。

 

「将軍位」という「権威」を利用し尽くしながら、それが名ばかりであり「権力」という裏付けのない立場を意識しなかった義昭の失敗が見て取れる。

 

監修・文/江宮隆之

『歴史人』20219月号「しくじりの日本史」より)

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