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家督相続後、破竹の勢いで奥羽を平定した政宗の手腕

戦国武将の領土変遷史①

伊達8千vs連合軍3万の戦力で政宗自身も3発被弾

仙台城跡(仙台市青葉区)にある伊達政宗騎馬像。1964年に2代目の像として建てられたが、今年3月の地震で亀裂が入り、修復中(2022年10月現在)。

 政宗は永禄10年(1567)8月3日、米沢城で父・輝宗、母・義姫の嫡男として誕生した。幼名を梵天丸という。

 

 政宗は4歳で天然痘(てんねんとう)により右目を失明する。だが政宗の教育者としての禅宗の名僧・虎哉宗乙(こさいそういつ)、傅役(もりやく)や、片倉小十郎景綱(かたくらこじゅうろうかげつな)などの存在が、政宗を文武両道で不撓不屈(ふとうふくつ)の武将に育て上げた。

 

 11歳で元服を果たした際には9代・政宗の名前を貰った。2年後に田村郡三春(みはる)城主・田村清顕(きよあき)の娘・愛姫(めごひめ)を娶(め)とり、天正9年(1581)、「相馬合戦」で初陣を飾る。3年後の天正12年、18歳で伊達家17代当主となった。

 

 政宗は、伊達家の拡大路線を取った。その最初の合戦は、安達郡小浜(おばま)城主・大内定綱(おおうちさだつな)が相手であった。大内支城・小手森(おでもり)城を落とした政宗は、城内にいた将兵・領民など男女800人を皆殺しにした。これにより、これまで地縁血縁に頼って集合離散を繰り返してきた奥羽の地に「敵は徹底的に排除する」方針を宣言したのであった。

 

 だが、天正13年10月に思わぬ事件が起こる。二本松城主・畠山義継(はたけやまよしつぐ)は一旦降伏したものの、策謀を巡らし政宗の留守中に父・輝宗を拉致して連れ去ろうとしたのだ。政宗は、輝宗もろともに義継を銃撃して殺した。そして二本松城を攻めた。「反伊達同盟」として南奥の佐竹・蘆名・岩城(いわき)・石川・白川などが畠山に味方した。

 

 伊達勢8千に対し連合軍は3万の大軍である。11月17日、両軍は奥羽街道と会津街道が交わる要衝・人取橋で激突した。「流れる血は紅の如し」(『木村宇右衛門覚書』)と政宗が語った通り政宗の甲冑には3発の銃弾と矢一筋が当たったし、73歳の重臣・鬼庭佐月斎(おににわさげつさい)が壮絶な討ち死にを遂げるほどの激戦だった。

 

 伊達勢は426人、連合軍は961人の死傷者を出した。翌日、連合軍は撤退した。佐竹氏の常陸国に隣国の敵である関東・江戸氏、安房・里見氏、小田原・北条氏などがその留守を狙って攻め込むという情報が撤退に繋がった。痛み分けながら、形の上では政宗が勝利した。

 

 翌年の天正14年11月、蘆名亀王丸(あしなかめおうまる)が3歳で死去した。政宗は弟・小次郎を、佐竹義重(よししげ)は我が子の義広(よしひろ)を、それぞれ蘆名の跡継ぎにしようと画策した。結果として「義広」派が勝利を収める。政宗は蘆名と戦うために、蘆名本城の会津・黒川城への経路にある猪苗代城の先代城主・猪苗代盛国(いなわしろもりくに)を味方にした。盛国と不仲の嫡男・盛胤(もりたね)は佐竹に味方した。

 

蘆名氏を打ち破った政宗は抵抗勢力も平定し南奥覇者に

 

 天正16年6月の「郡山合戦」で、佐竹・蘆名連合軍4千に対し僅か600で臨んだ政宗は、敗れることなく和議を成立させた。

 

 その翌年、天文17年6月、蘆名との決着を決意した政宗は2万3千で猪苗代城に入った。これに対して蘆名勢1万6千は城の北西・磐梯(ばんだい)山南麓にある摺上原(すりあげはら)一帯に布陣した。これが摺上原の戦いである。

 

 佐竹は内紛があって息子の蘆名義広を支援できない。摺上原での遭遇戦は激戦になった。蘆名勢による序盤の猛攻に耐えた伊達勢は、蘆名勢を包囲して攻撃。片倉景綱・伊達成実(しげざね)の部隊が勇猛果敢に戦った。逃げ崩れ四散する蘆名勢を追って政宗は黒川城下に迫る。義広は佐竹領に逃れ、ここに蘆名氏は滅びた。

 

 続いて二階堂氏を滅ぼした政宗は、相馬・白川・石川らを屈服させて南奥の全域をほぼ掌中に収め、奥羽の覇者となったのだった。

 

監修・文/江宮隆之

『歴史人』202210月号「戦国武将の勢力変遷マップ」より)

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