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戦国時代の中国地方で2大勢力に割って入った毛利元就の謀略とは⁉

今月の歴史人 Part.3


戦国時代初期、中国地方は大内・尼子の2家に牛耳られていた。そこに登場したのが、毛利元就である。享禄元年(1528)毛利元就は尼子氏の傘下から離反し、大内氏と同盟関係を構築。毛利元就は2勢力にどのように割って入り、どのような戦略で覇権を奪っていったのか、みていこう。


 

■家督相続で離反した元就の吉田郡山城に尼子軍が襲来

 

毛利元就と3兄弟の「三矢の訓像」 「3人が力を合わせれば、誰にも負けることはない」と息子たちに教えを説いた毛利元就の有名な逸話の場面を再現した像。山気知見・萩出身の彫刻家・長嶺武四郎が製作したもの。

毛利元就と3兄弟の「三矢の訓像」 「3人が力を合わせれば、誰にも負けることはない」と息子たちに教えを説いた毛利元就の有名な逸話の場面を再現した像。山気知見・萩出身の彫刻家・長嶺武四郎が製作したもの。

 

 室町時代、西国の雄は、大内氏であった。特に、大内義興(よしおき)は、諸国を放浪する前将軍(10代将軍)・足利義稙(あしかがよしたね)を山口に庇護し、ついには上洛。義稙を将軍に復帰させることに寄与する。その義興の後継となったのが子の大内義隆(よしたか)。享禄元年(1528)に家督を継承した時は、22歳の若さだった。義隆は九州に出兵し、大友氏や少弐(しょうに)氏らと争い、また、出雲の尼子氏の安芸国侵攻に際しては、家臣を派遣し、尼子軍を撃破した。

 

毛利元就の戦略

 

 大内氏・尼子氏といった有力大名の影響が濃厚であった安芸国(広島県)。その一国衆に過ぎなかった毛利家を中国地方の大大名へと発展させたのは、戦国武将・毛利元就(もうりもとなり)である。元就は、毛利弘元(ひろもと)の次男として、明応6年(1497)に生を受ける。兄・毛利興元(おきもと)が家督を継承するが、24歳の若さで早世。興元の遺児・幸松丸もわずか9歳で世を去る。そこで重臣の会議により、元就が家督を継ぐことに決まる。

 

 この時、元就の異母弟・相合元綱(あいおうもとつね)を擁立せんとする家臣が尼子氏と結んで策動したため、元綱一派は粛清された。毛利家も当時の御多分に洩れず家臣の独立性が強く、そのことは後年まで元就を苦しめることになる。元就は、家督相続の前には、尼子方に付き、大内氏方の鏡山城(東広島市)を調略をもって落としている。

 

 しかし、前述した家督継承の経緯や恩賞が少ないことなどの不満から尼子氏を離れ、再び大内方となった。元就は、尼子方の石見国(島根県)の国人・高橋氏を討ち、勢力を拡大させた。さらに、近隣の国衆と婚姻関係を結び、連携を強め、元就は安芸国衆の盟主的立場になっていく。

 

 そうしたこともあり、敵対する尼子氏と激突することもあった。天文9年(1540)8月、尼子経久(あまごつねひさ)の後継者・詮久(あきひさ)率いる3万の大軍が、元就が籠る吉田郡山城に襲来する。

 

 尼子軍は、郡山城下の各所に放火し、毛利方と戦闘を繰り広げた。毛利方には、村々の農民も加わり、応戦した。また、安芸国の国衆や、大内氏までが毛利氏に加勢。大内の重臣・陶隆房(すえたかふさ)が救援に駆けつけた。

 

 天文10年1月、陶軍は毛利軍とともに、尼子方を攻撃。尼子方は詮久の大叔父・久幸を失うなど打撃を受け、撤退を開始する。しかし、その撤退の最中にも、毛利方の追撃を受け、尼子軍は多くの戦死者を出した。尼子詮久は無事に富田まで帰還することができたが、安芸侵攻の失敗は、尼子氏にとって大きな痛手だった。

 

 その後、大内義隆が出雲の尼子氏を攻めんとしたのも、当然であった。天文11年、大内軍は出雲に侵攻。これに、元就も従軍していた。大内軍は、尼子方の防戦に苦しみつつも、ついに尼子の本拠である月山富田城を包囲する。大内軍の侵攻によって、出雲国衆は、尼子方を離れ、大内に味方する有様であったという。

 

 しかし、大内軍が富田城をなかなか攻め落とすことができなかったことから戦況が変化。出雲国衆の多くが今度は尼子方に付き始めたのだ。

 

 

■大内氏の富田城攻めの失敗毛利元就は安芸の覇権確保へ

 

 天文12年5月、大内軍はついに全軍退却を開始。が、退却戦の通例とも言うべき敵(尼子方)の追撃があり、命からがらの撤退となった。元就も同様であった。

 

 その後、元就は安芸国衆の小早川家と吉川家に、それぞれ3男・隆景(たかかげ)と次男・元春(もとはる)を養子として送り込み、勢力を広めた。小早川隆景と吉川元春は、毛利一族そして有力家臣家の当主として毛利本家の当主をよく支えることになる。

 

 着々と地歩を固める元就であったが、獅子身中の虫がいた。井上元兼(いのうえもとかね)とその一族である。彼ら井上一族は、毛利家中において勢力を持っていた重臣であり、専横を極めていたという。彼らは、国人や寺社領の奪取や会議等への不参加とやりたい放題していたようだ。

 

 天文19年、元就は動く。「長年、上意を軽んじほしいままの振る舞いが目に余る」として、元兼や一族ら30名ばかりが殺害されたのである。いわゆる井上一族誅伐事件である。事件後、毛利の238名の家臣は、毛利氏に起請文(誓約書)を提出させられて、今後、毛利氏が家中を存分に成敗することを承認させられている。毛利氏が家中の支配権を確立した瞬間であった。

 

監修・文/濱田浩一郎

『歴史人』10月号「戦国大名の勢力変遷マップ」より)

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