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名古屋や静岡が大都市になったのは徳川家康の戦国時代の戦略のおかげ⁉

今月の歴史人 Part.2


現在、日本を代表する大都市として栄える名古屋と静岡。もともと東海道の要衝でもあり、位置的な重要度も高いことが栄える理由と考えられる。しかし、戦国時代末期には徳川家康が自らのゆかりの地でもあったこの2都市を重視した政策を敷いたことも大都市への発展した一因ではなかったのだろうか?


 

■関ヶ原合戦を終え、再分配! 東海は徳川一色に

 

徳川家康 自らの故郷である東海には、天下人になったのち、自らの親族や重臣を配置し、町を大きく発展させた。(国立国会図書館蔵)

徳川家康自らの故郷である東海には、天下人になったのち、自らの親族や重臣を配置し、町を大きく発展させた。(国立国会図書館蔵)

 

 関ヶ原の戦い以降、自身の権力基盤を固めるために再配分を進めた家康。故郷への思いの裏にある大阪城への警戒心が、老後の家康を駿府城へと導く。徳川家康の故郷として“東海=徳川”の時代へとすすんでいく。

 

 関ヶ原の戦い後、徳川家康は論功行賞により、西軍についた大名の所領を没収すると、東軍についた大名に加増した。加増は、それまでの本領に加増されるだけの場合もあったが、東海地方においては、豊臣恩顧の大名が入封していたため、転封が行われている。家康は、駿河府中の中村一忠を伯耆米子へ、遠江掛川の山内一豊を土佐高知へ、遠江浜松の堀尾忠氏を出雲松江へ、三河吉田の池田輝政を播磨姫路へ、三河岡崎の田中吉政を筑後柳川へ、尾張清須の福島正則を安芸広島へと転封させた。

 

 その代わり、駿河府中には内藤信成、遠江掛川には松平(久松)定勝、遠江浜松には松平(桜井)忠頼、三河吉田には松平(竹谷)家清、三河岡崎には本多康重、尾張清須には松平忠吉を入れている。また、西軍についた美濃の織田秀信は改易とし、代わりに入った奥平信昌は岐阜城を廃城とし、加納城を築いている。伊勢桑名の氏家行広も西軍について改易となり、代わりに家康の重臣である本多忠勝が入っている。東海地方に入封したのは、いずれも家康に信頼されている親藩や譜代の大名であり、特に松平(久松)定勝は家康の異父弟、松平忠吉は家康の四男、奥平信昌は家康の娘婿だった。

 

徳川家康家系図 家康はたくさんの子をもうけ、政略結婚や他家の養子とすることで勢力を拡大させた。また天下人となると東海をはじめ、各地方の拠点となる場所に息子たちを配置した。

徳川家康家系図家康はたくさんの子をもうけ、政略結婚や他家の養子とすることで勢力を拡大させた。また天下人となると東海をはじめ、各地方の拠点となる場所に息子たちを配置した。

 

 慶長8年(1603)に家康は征夷大将軍となり江戸に幕府を開く。しかし、その後も、大坂城の豊臣秀頼を絶えず警戒していた。豊臣恩顧の大名が秀頼を奉じて江戸城を攻撃することは、容易に考えられることだった。

 

 だからこそ家康は、慶長10年に子の秀忠に将軍職を譲ると、駿府城に隠居したのである。これも、駿府城が空き城になっていたわけではなく、駿府城主であった内藤信成をあえて近江長浜に移したうえで、駿府城に隠居している。しかも、天下普請によって駿府城は大幅に修築されたのだった。

 

 家康自身は、駿府城を隠居城とした理由について、5つの理由をあげている。具体的には、幼少のころに住んでいたので懐かしいこと、富士山があり冬も暖かくて老後にはよいこと、米穀がおいしいこと、西の大井川や安倍川、東の箱根山と富士川に守られていること、参勤交代する大名も立ち寄りやすいことなどを挙げている。

 

 ただ、大坂城を意識していたのは事実であろう。駿府城を、江戸城の防波堤にするつもりであったのは疑いない。駿府城よりも大坂に近い地域にも、家康は信頼できる大名に入封を命じている。

 

 慶長13年、家康は伊予今治20万石の城主だった藤堂高虎に伊賀一国と伊勢の一部に20万石余を与えて安濃津城主とし、城の改修も命じている。

 

幕藩体制確立後の東海

幕藩体制確立後の東海

 また、清須城主となっていた4男の忠吉が早世したのち、翌慶長14年には、清須城に代わる新たな城として名古屋城を築き、9男・義直の居城としている。大坂から江戸に進軍する場合、名古屋であれば、東海道と中山道のどちらを通る敵も、迎え撃つことが可能であった。

 

 さらにこの年、家康は水戸城主だった10男の頼宣に駿河・遠江と東三河に50万石を与え、駿府城に招いた。実質的に、実権を握っていたのは家康であったが、名目的には頼宣が城主となっている。

 

■大坂を抑えつつ現代も 栄える大都市の礎を築く

 

駿府城家康が隠居城として築城。家康死後は徳川秀忠の子・忠長などが城主となり、代々徳川家の城として存続。

駿府城 家康が隠居城として築城。家康死後は徳川秀忠の子・忠長などが城主となり、代々徳川家の城として存続。

 

 元和元年(1615)に大坂の陣が終結し、その翌年には家康が駿府城で亡くなる。こののち、2代将軍となっていた秀忠は、弟の頼宣を紀伊の和歌山に転封させた。駿府城は家康の居城であり、弟の家宣をあえて駿府城から遠ざけることで後継者にならないように配慮したものであろう。ちなみに、和歌山城主となった頼宣は、紀伊徳川家の祖となっている。なお紀伊徳川家は、現在の和歌山県を支配するだけでなく、実は現在の三重県にはいる松坂城と田丸城も支城としていた。

 

名古屋城代々の尾張徳川家の居城である。今もなお全国に名を轟かせ、徳川の威光を現在に残す。

名古屋城 代々の尾張徳川家の居城である。今もなお全国に名を轟かせ、徳川の威光を現在に残す。

 

 東海地方に、家康ゆかりの大名が入封したのは、端的に言って、江戸と大坂という幕府の二大拠点を押さえるためであった。当時は、陸運だけでなく海運も重視されていたから、大坂から江戸の間の東海地方沿岸を守ることは、軍事的にも意味があったわけである。

 

 名古屋や静岡は、家康ゆかりの地として城も大規模に築かれ、城下町は大都市となって発展する。その理由は、単に家康ゆかりの地であったからというわけではあるまい。仮に東海地方が家康の出身地でなかったとしても、江戸に幕府を開いたとしたら、名古屋や静岡などは都市として発展していたと考えられる。

 

監修・文/小和田泰経

『歴史人』10月号「戦国大名の勢力変遷マップ」より)

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