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関ヶ原後、西国に押し込められた外様「薩長土肥」が翻した反旗

「歴史人」こぼれ話・第28回


関ヶ原の戦後処理において、家康は東国安定のため外様大名たちを西国に押し込めた。だが、家康の意図に反し、260余年もの後に「薩長土肥(さっちょうどひ)」と呼ばれた雄藩(ゆうはん)は反旗を翻し、幕府を崩壊させてしまう。石高が4分の1にまで減封された長州ほか、雄藩が長年にわたって募らせた恨みの深さを探る。


島左近友之(右)は敢闘虚しく主君石田三成とともに関ヶ原で滅んだ。『関ヶ原大合戦之図』月岡芳年・魁齋芳年筆/都立中央図書館蔵

 来年からいよいよ、大河ドラマ『どうする家康』が始まる。ドラマ内の家康が、果たしてどのような人物及び場面設定で描かれるのか? 大いに期待したいところである。その主人公・家康にとって、史実として最も重要な場面が、関ヶ原の戦いであることは言うまでもない。戦が始まるまでの、情報収集と裏工作が功を奏して、諸将の寝返りを誘い込んで勝ちを得たその深謀遠慮(しんぼうえんりょ)こそが、家康の真骨頂というべきである。

 

 しかし、家康が行った戦後処理において、西国に押し込めたはずの外様大名たちが、260余年もの後に反旗を翻して幕府を崩壊させてしまう。これは家康にとっても、想像だにできなかったに違いない。それが「薩長土肥」と呼ばれる薩摩藩、長州藩、土佐藩、肥前藩(びぜんはん/佐賀藩)の面々であった。

征夷大将軍に任じられた徳川家康。「大日本名将鑑」月岡芳年筆/東京都立中央図書館蔵

 その代表格は、西軍総大将・毛利輝元(もうりてるもと)である。安芸国など8カ国112万石もの大藩から一転、周防国(すおうのくに)、長門国(ながとのくに)の2カ国298000石へと追いやられた。石高が4分の1にまで減封されたわけだから、臣下共々大きな衝撃であったに違いない。この時の怨恨が、260余年も過ぎて長州藩となった幕末まで残り続けたのである。

 

 毛利家の新年の拝賀において、「今年の倒幕の機はいかに?」と問う家老に対し、藩主が「時期尚早」と答える習わしがあった…との逸話も、よく知られるところである。

 

 その真偽は定かではないものの、この時の徳川家に対する怨恨が、幕末まで長きにわたって受け継がれ続けていたからこその伝承である。その発露が、吉田松陰の私塾で学んだ藩士を中核として巻き起こった、倒幕運動であった。

関ヶ原合戦前の東海、北陸地方の東西大名。山内氏は豊臣系であり、東海、遠江の掛川城主であった。

 また、西軍に与して憂き目を見た土佐藩の長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)は、領国を没収されて浪人になったとか。その遺臣たちの多くは、新たに入封してきた山内一豊(やまうちかずとよ)の下で郷士として取り立てられたものの、山内家の藩士である上士(じょうし)の風下に置かれた。この時の遺恨がやはり幕末に爆発。郷士を中心として尊王攘夷を掲げる土佐勤王党(とさきんのうとう/坂本龍馬も加盟者の一人であった)を結成し、倒幕に向けて駆け抜けていったのだ。

 

 この長州藩、土佐藩に加えて、徳川四天王の一人・井伊直政(いいなおすけ)の取りなしが功を奏して、かろうじて本領を安堵された薩摩藩と、西軍に与しながらも、いち早く東軍に寝返った佐賀藩を含めた「薩長土肥」の4藩が中心となって、幕府を崩壊に導いた。

 

 また、いずれも外様大名であった4藩が、明治政府の要職を独占したことは注目に値する。明治時代の閣僚経験者79名のうち、長州藩14人、薩摩藩14人、土佐藩9人、佐賀藩5人が占める。内閣総理大臣や元老に至っては、長州藩と薩摩藩が圧倒的に多かった。

 

 関ヶ原の戦いで西軍に与したことで外様大名として苦杯を舐めたその怨恨が、幕末に爆発。260余年もの時を経て幕府を崩壊させた上、藩閥として実を結んだのである。

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藤井勝彦ふじい かつひこ

1955年大阪生まれ。歴史紀行作家・写真家。『日本神話の迷宮』『日本神話の謎を歩く』(天夢人)、『邪馬台国』『三国志合戰事典』『図解三国志』『図解ダーティヒロイン』(新紀元社)、『神々が宿る絶景100』(宝島社)、『写真で見る三国志』『世界遺産 富士山を行く!』『世界の国ぐに ビジュアル事典』(メイツ出版)、『中国の世界遺産』(JTBパブリッシング)など、日本および中国の古代史関連等の書籍を多数出版している。

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