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徳川家臣団の結束力と強さの秘密 ~愚直な三河武士たちがなぜ天下を取れたのか?~

今月の歴史人 Part.2


2023年の大河ドラマ『どうする家康』で松本潤さんが演じることが決まった主人公・徳川家康。その周辺を固めていたのは三河時代から支える家臣団である。戦国家臣団の中でも、主君への忠誠心、強い結束力、粘り強い戦闘力で名高い徳川家臣団。織田、豊臣家臣団に比べ地味な印象がある彼らだが、主君・家康が戦国乱世を勝ち抜き天下を得る原動力となった。家臣団の中核となった三河武士団の気質、家臣団の特徴、その編成、主要家臣の事績、さらに強さの秘密を徹底解明していく。


 

武将家康の成長とともに進化する家臣団

 

徳川家康像 かつて三河国に属した岡崎の地に立つ徳川家康像。25歳ごろの若き家康を表現した像。全国的にも若き頃の姿の銅像は珍しい。日本最大級の騎馬像でもある。

徳川家康像
かつて三河国に属した岡崎の地に立つ徳川家康像。25歳ごろの若き家康を表現した像。全国的にも若き頃の姿の銅像は珍しい。日本最大級の騎馬像でもある。

 

 徳川家臣団の特徴ともいえる「忠誠心」「結束力」「戦闘力」の3要素は、織田・今川での人質時代から戦国大名として自立し、さらには天下人への道を歩む中で確立された。家康の家臣団統制は、その時代ごとにあるいは環境ごとに変化し、進化し、形成されていった。

 

 概観すると、僅か250人という弱小家臣団から始まった人質時代。解放され岡崎への帰城を果たし三河を統一する時期には、酒井忠次・石川家成(後に数正)の指揮下にあった一門衆・国衆を中心に家臣団化が進められた。三河から周辺諸国(遠江・駿河・甲斐・信濃)への領有を巡っては、今川氏・武田氏との抗争を経た。この時期には三河譜代の直臣武将を城持衆として独立配置し領国経営に当たらせた。一方で本多忠勝・榊原康政らを旗本の侍大将として軍団を浜松城に常駐させた。その代表格が、家康から能力を認められた遠江出身の井伊直政である。これら常備軍からは家康の親衛隊でもある「大番組」も創設された。

 

 豊臣秀吉の天下統一に結果として協力した家康は、天正18年の小田原・北条氏滅亡に伴い北条氏の旧領関東に移封される。この措置に憤慨する譜代家臣団は多かったが、家康はこうした憤懣までも利用して家臣団の絆を強固にさせ、結束を図る糧とした。家康は新領国の経営のために42名に上る一門・譜代衆の武将を周辺諸地域に配置し、1万石以上の所領を与えて大名とした。家康は、彼らを徳川家を支える囲いにしようとしたのだった。

 

 徳川家臣団の戦闘力の強さは、家康の人質時代から今川家の楯になって来たことが上げられる。戦場では常に先鋒を命じられ、家康のために戦いに勝つ、命を大事にする、を命題としてきた家臣団は、実戦を通じて鍛えられ、絆を深めあった。後年、家康は「わが宝は、身替わりになってくれる家臣が500ほどいることだ」と誇ったほど、武功派が多く、結束力が強かったのだ。身替わりといえば、三方ヶ原合戦の折の夏目吉信が上げられるが、他にも天正3年5月の長篠・設楽ヶ原合戦で長篠城を脱出して再び戻った鳥居強右衛門の例もある。武田方に捕まりながら、自分の命を厭わずに徳川方に尽くして磔にされた強右衛門も、家康への忠義に死んだのだった。

 

 

家康を震撼させた重臣・石川数正の出奔

 

徳川二十将 三河時代から家康を支えた武将たち。三河から天下に上りつめ、幕府を創立するまで家康の傍らで支え続けた、まさに忠臣たちであった。(東京国立博物館蔵/出典:Colbase)

徳川二十将
三河時代から家康を支えた武将たち。三河から天下に上りつめ、幕府を創立するまで家康の傍らで支え続けた、まさに忠臣たちであった。(東京国立博物館蔵/出典:Colbase)

 

 だが一方で、家康にとって忠義だけではなくマイナスともいえる行為に出た重臣もいた。三河譜代でも指折りの家柄で重用されながら、城代であった岡崎城から出奔して秀吉に走った石川数正である。「竹馬の友」とまで呼んでいた数正の裏切りに家康は大きな衝撃を受けた。しかし、数正の行為は譜代家臣団に「裏切りは不義」という意識を植え付け、その後の家康の家臣統制に大きなプラスをもたらしたともいえるのではないか。マイナスをプラスに変える。家康流の生き方がここにも見られる。

 

 関ヶ原合戦の勝利の結果、西軍に属した90家の改易・減封により総計622万石を、家康は直轄領に組み込むとともに、武功として東軍諸将に配分した。だが豊臣系の大名(加藤清正・福島正則・細川忠興など)に対しては、加増と同時に畿内以西に移し、関東と畿内を結ぶ地域は親藩・譜代で固めるという巧妙な配置を行った。この結果、68名もの親藩・譜代大名が創られて、家康と徳川家の権力はより強化されたのである。さらに、軍事・政治の中心にいた井伊・本多・榊原などを有力な外様大名への抑えとして関東地域から離れさせた。

 

 これは、軍事力の中心だった彼らが政権中枢から離れることに繋がり、ブレーン交替ともなった。本多正信・大久保忠隣が「年寄衆(後の老中)」として徳川政権の中枢に位置することになる。

 

 

2代目将軍秀忠の側近に三河以来の譜代を配置

 

 慶長8年(1603)江戸に幕府を開いた征夷大将軍・家康は、2年後には秀忠に将軍職を譲り、江戸城に住まわせ、自らは「大御所」として駿府城に住んだ。将軍の権威を2分して統治権・支配権を秀忠に担当させ、幕府としての組織作りや領地・知行の安堵をさせた。家康は、一門・譜代大名を含む軍事指揮権や主従関係としての領地・知行の宛行いを担当した。これが、家康が目論んだ「二元政治」の中身であった。しかも、秀忠の直属家臣団は三河以来の譜代層を中心に構成し、江戸城には年寄衆を置いた。二元政治は、家康の家臣団統制の総仕上げともいえる政策であり、ここに忠誠心・結束力の成果が見て取れる。

 

 譜代衆ばかりか外様を含め諸大名との絆を深める(徳川化させる)方策として、家康は婚姻施策を強化した。婚姻政策は秀吉を含め誰もが行った政策だが、家康の場合はとりわけ規模が大きく厚かった。

 

 家康の人心掌握は、譜代の家臣団ばかりでなく、幾多の戦国大名にも及んだ。中でも藤堂高虎は、生涯に7人の主君を変えたとされるが、その最後の主君が家康である。高虎は家臣がどうすれば主君は1番喜ぶか、主君にとって家臣を統制するのに何が最良の方法であるか、を家康から学び、自らが家康を最良の主君と仰ぎ見た結果であった。いわば、家康の生き方と魅力が、徳川家臣団の結束力の強さの秘密ではなかったか。

 

監修・文/江宮隆之

『歴史人』8月号「徳川家康 天下人への決断」より)

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連合艦隊の真実

世界の列強と互角の軍事力を有するため、日本海軍が明治27年に設立した「連合艦隊」は、優れた機動力と策略で、清国やロシアを圧倒する。しかし「大艦の時代」から「航空機の時代」へ移り変わるなかで、その威容は徐々に衰えを見せ始める。かつて世界有数の軍事力を誇りながら、太平洋戦争で最期を迎えた連合艦隊の軌跡を追う。