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弱小だった徳川家臣団は家康の思慮深さと信頼で共に成り上がった⁉

今月の歴史人 Part.3


2023年の大河ドラマ『どうする家康』で松本潤さんが演じることが決まった主人公・徳川家康。そして、彼を支えたのは戦国家臣団の中でも、主君への忠誠心、強い結束力、粘り強い戦闘力で名高い徳川家臣団。織田、豊臣家臣団に比べ地味な印象がある彼らだが、主君・家康が戦国乱世を勝ち抜き天下を得る原動力となった。家臣団の中核となった三河武士団の気質、家臣団の特徴、その編成、主要家臣の事績、さらに強さの秘密を徹底解明していく。


 

 

土豪と呼ぶに相応しい弱小だった松平武士団

 

徳川家十六善神肖像図 「徳川十六神将」とは、家康に仕え、三河時代から天下統一までを支えた16名の家臣のこと。(国立国会図書館蔵)

徳川家十六善神肖像図 「徳川十六神将」とは、家康に仕え、三河時代から天下統一までを支えた16名の家臣のこと。(国立国会図書館蔵)

 

 徳川家康の祖先・松平氏は三河国加茂郡松平郷を発祥とする。「山間の平らな場所に松が何本か生えていた場所」が松平だとする説もある。その程度の地域でその程度の勢力でしかなかったが、徐々に力を付けた松平氏は応永年間(1394~1428)から三河・安祥城を本拠とするようになった。この時代には多くの庶流も出て「十八松平」と称する一門衆になった。これが松平氏の初期家臣団の規模であった。

 

 戦国時代の小さな規模の国衆(地方豪族)の1人に過ぎなかった松平氏は、強力な力を持った大名に附属せざるを得なかった。松平竹千代(後に元信、元康、徳川家康を名乗る)は、そのために1度は織田信秀(信長の父)の、続いて今川義元の人質として合わせて13年間の人質生活を送った。この人質時代の家康に付き従って今川の本拠・駿府にいたのが、酒井忠次・石川数正・阿部正勝・天野康景・平岩親吉など三河以来の家臣団であった。

 

 とはいえ、この時代の家康には国許(岡崎)に僅か250人ほどの家臣しかいない。それでも永禄3年(1560)の桶狭間の戦いで義元が討ち死にすると、家康は今川から独立した。岡崎城に戻った家康は三河統一を開始した。信長と同盟を結ぶと、三河東部の今川家臣団にも触手を伸ばしていった。こうして、野田城・菅沼定盈、作手城・奥平貞能、長篠城・菅沼貞景ら奥三河の国衆が家康の家臣となった。

 

 だが21歳の若きリーダーは、独立して初の試練を迎える。永禄6年(1563)からの三河一向一揆(浄土真宗本願寺派)である。家康の苦しみは、門徒であった家臣団から多くが主君・家康ではなく一揆に加担したことであった。翌年、家康は一向一揆を平定するが、この一揆と平定戦を通じて家康と家臣団の絆・結束は逆に深まった面もある。

 

家康と家臣団の関係性を綴った『三河物語』 大久保忠教(彦左衛門)の自伝。徳川家が戦国大名として拡大していく過程、家康と家臣団との関わりなどが詳細に綴られている。(国立国会図書館蔵)

家康と家臣団の関係性を綴った『三河物語』大久保忠教(彦左衛門)の自伝。徳川家が戦国大名として拡大していく過程、家康と家臣団との関わりなどが詳細に綴られている。(国立国会図書館蔵)

 

 一揆が鎮まると家康は再び三河国内での勢力拡大に向かう。この過程で、今川派の国衆が離反して家康に附属すると、牛久保城・牧野成定らも家臣団に組み込んで、本拠の西三河も完全に抑えた。永禄8年(1565)、三河を統一すると家康は、石川家成を西三河・岡崎城に、酒井忠次を東三河・吉田城にそれぞれ「旗頭(家老)」として置いて家臣団をまとめさせた。また領国(三河)統治に当たっては、高力清長・本多重次・天野康景を奉行職に任命して民政・訴訟を担当させた。慈悲深い高力、思慮深い天野、正直で公明正大な本多、と個性の異なる3人を任じたところに、家康の思慮深さと三河武士団への信頼が見て取れる。

 

監修・文/江宮隆之

『歴史人』8月号「徳川家康 天下人への決断」より)

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