「武田・北条vs上杉」甲相駿三国同盟後の激戦
戦国武将の領土変遷史⑧
甲相駿三国同盟が成立し武田・北条vs上杉の枠組に

国府台合戦の際に里見広次の戦死を聞き、駆け付けた娘が石にもたれ泣き続け、亡くなったという逸話を持つ「夜泣き石」(千葉県市川市・市川里見公園内)。
今川義元(いまがわよしもと)は駿河河東地域を奪回後、天文16年(1547)から三河への侵攻を本格化し、尾張織田氏と抗争するようになった。
武田信玄(たけだしんげん)は信濃経略を順調にすすめて、同19年には信濃中部の小笠原(おがさわら)氏を没落させた。北条氏康(ほうじょううじやす)は山内上杉氏領国の経略をすすめ、同19年には山内上杉氏の本国上野にまで進軍している。
また、妹で足利晴氏(はるうじ)正妻の芳春院(ほうしゅんいん)殿とその子義氏(よしうじ)を、領国の葛西城(東京都葛飾区)に迎え、晴氏に代わる公方資格者を確保している。
そうしたなか信玄姉の今川義元正妻が死去し、今川・武田・北条三氏は、互いに婚姻関係をともなう同盟の形成をすすめ、同20年にはそれぞれの婚約を結び、婚姻は同23年には成立した。これを甲相駿(こうそうすん)三国同盟という。
また氏康は、天文20年に足利晴氏との和睦を成立させ、同21年に山内上杉氏を攻撃、上杉憲政を越後に没落させて、上野南部まで経略を遂げた。
長尾景虎は、上田長尾氏を従属させて、ようやくに越後統一を遂げた。そこに上杉憲政から支援を要請され、初めて上野に出陣した。こうして氏康と景虎の抗争が始まった。
氏康は同年末、足利晴氏に末子義氏へ古河公方足利氏の家督を譲らせ、その後見を務める地位につき、以後は北関東の国衆と政治交渉を展開していった。
村上氏の越後への逃亡を発端に川中島合戦が始まる
信玄は同22年に、北信濃の有力国衆村上義清(むらかみよしきよ)を越後に没落させた。景虎は村上氏支援のため信濃に進軍して、信玄はそれに対陣した。信玄も景虎と抗争するようになった。川中島(かわなかじま)合戦の始まりである。
信玄と景虎は、弘治元年(1555)・同3年と川中島で対戦した。その間の天文23年、信玄は信濃伊那(いな)郡・木曾郡を経略し、川中島以北を除き信濃の領国化を遂げた。同時に東美濃国衆が従属してきて、美濃にも勢力がおよぶようになった。
氏康は天文21年に上総真里谷武田氏領国を併合し、同22年から里見氏領国への侵攻を本格化し、弘治元年には上総南部まで領国化した。
また上野の旧山内上杉氏勢力の経略をすすめ、永禄2年(1559)には上野一国の領国化を遂げる。
北関東国衆については、古河公方足利義氏の権威のもと、弘治2年に下総結城(ゆうき)氏と常陸小田氏の抗争に介入して初めて軍勢を常陸に進軍させ、同3年に下野宇都宮氏の内乱を解決し、常陸佐竹氏と陸奥白川氏の抗争にも介入するようになっている。
上杉謙信の関東侵攻 北条氏は反攻し勢力奪回
永禄2年、長尾景虎は上洛し、将軍足利義輝から関東管領山内上杉氏の進退について一任をうけた。また同年末、北条氏では家督が氏康から嫡男氏政(うじまさ)に譲られた。
同3年9月、景虎は上杉憲政を擁して本格的に関東侵攻を開始した。これには北条氏と敵対関係にあった里見氏・小田氏、政治関係が悪化していた宇都宮氏・佐竹氏らが積極的に味方し、また上野・武蔵国衆の多くが、北条氏から離叛(りはん)して景虎に味方した。
さらに古河公方足利氏でも、家老簗田(やなだ)氏らが景虎に味方し、義氏に代わる公方として庶兄藤氏を立て、古河公方足利氏は再び分裂した。
同4年、景虎は北条氏攻略を図り、その本拠である小田原城を攻囲した。北条氏と同盟関係にあった武田信玄・今川氏真(うじざね)は、自身が援軍として出陣した。
そのため景虎は後退し、その途中、上杉憲政(のりまさ)の養子になり家督を譲られ、上杉政虎(まさとら/輝虎/てるとら、法名謙信)を名乗った。
構図として、関東管領も再び北条・上杉両氏で対抗するかたちになった。北条氏は7月から反撃を開始し、離叛した国衆の経略や再従属をすすめた。9月には信玄と謙信は川中島で対戦した。11月に信玄は、謙信方となっていた西上野への侵攻を開始した。
こうして北条・武田両氏は共同して謙信に対抗していった。
同7年、北条氏は第2次国府台合戦で里見氏に勝利し、里見方の国衆の従属をすすめた。そして同9年、謙信は下総に侵攻したが、これを迎撃し、大勝した。
これにより謙信の権威は失墜し、同年から翌年にかけて、謙信方の国衆はほとんど北条氏に従属した。これにより謙信の関東での勢力は、上野沼田領と、常陸佐竹氏・下野宇都宮氏らだけになった。
監修・文/黒田基樹