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伊勢宗瑞(北条早雲)の関東進出と新勢力の台頭

戦国武将の領土変遷史⑥

両上杉氏が対立し、伊勢宗瑞の関東進出を許す

JR小田原駅にある北条早雲公像。江戸時代の軍記物語などには、早雲の戦いぶりを印象的に記した逸話が残っている。

 扇谷上杉定正(おうぎがやつうえすぎさだまさ)による、太田道灌(おおたどうかん)謀殺をうけて、道灌に親しかった勢力が扇谷上杉氏を離叛(りはん)して山内上杉氏に味方した。これにより山内・扇谷両上杉氏の政治対立が深まり、長享元年(1487)から両上杉氏の全面戦争が展開された。これを長享(ちょうきょう)の乱という。この戦乱に、古河公方足利氏は最初のうち、扇谷上杉氏に味方したが、明応3年(1494)からは山内上杉氏に味方した。

 

 また長享元年10月、駿河今川氏でクーデターが起きた。今川氏の前当主義忠(よしただ)の嫡男氏親(うじちか)を、叔父で幕臣の伊勢盛時(いせもりとき/法名宗瑞、北条早雲/そううん)が擁して、今川氏当主であった今川小鹿範満(おしかのりみつ)を滅ぼして、氏親を今川氏当主に据えた。

 

 盛時は帰京したが、延徳3年(1491)9月に堀越公方足利氏で、足利政知の死去後、庶長子の茶々丸(ちゃちゃまる)によるクーデターで内乱が展開されたことで、再び駿河に下向した。内乱は周辺地域に影響し、翌明応元年から甲斐武田氏で内乱が展開された。

 

 明応2年、中央での明応の政変をうけて、伊勢宗瑞(いせそうずい)は伊豆侵攻を開始した。その際に扇谷上杉氏と同盟した。そのため同3年、宗瑞は上杉定正の要請をうけて、初めて関東に進軍した。同4年に宗瑞は足利茶々丸を伊豆から没落させ、伊豆中央部を掌握し、韮山(にらやま)城(静岡県伊豆の国市)を本拠にした。

 

 同5年に山内上杉氏と足利茶々丸は扇谷上杉氏勢力の相模西部・駿河東部に侵攻し、小田原城(神奈川県小田原市)の大森氏を服属させた。同7年に宗瑞は足利茶々丸を滅ぼして伊豆の経略を遂げた。同時期に甲斐武田氏の内乱も終息をみている。同9年頃に宗瑞は大森氏を滅ぼして相模西部を経略し、関東の政治勢力として成立をみている。

 

 永正2年(1505)3月、山内上杉氏は扇谷上杉氏を降伏させて、長享の乱は終結した。

 

長尾為景の地位確立と北条早雲の相模統一

 

 永正3年4月から、古河公方足利政氏とその嫡男高基(たかもと)との間で抗争が開始された。これを永正の乱という。山内上杉氏と扇谷上杉氏は、当初は政氏を支持し、政氏と高基の和解に周旋した。しかし同4年8月、越後上杉氏で内乱が生じ、家宰長尾為景(ためかげ)が当主上杉房能(ふさよし)を戦死させた。為景は当主に上杉定実を擁立し、越後の領国化を開始した。

 

 同年2月、甲斐武田氏ではわずか10歳の信虎(のぶとら/当時は信直/のぶなお)が当主になった。同5年から反対勢力との抗争を開始し、国内平定をすすめていった。同6年7月、上杉房能の実兄であった山内上杉顕定(うえすぎあきさだ)が越後に侵攻し、長尾為景方との抗争を展開した。直後の8月、為景の要請に応じて伊勢宗瑞が山内・扇谷両上杉氏に敵対し、その領国への侵攻を開始した。

 

 同7年6月、顕定は越後で戦死し、為景は危機を脱した。同8年に山内上杉氏で顕定後継をめぐり内乱が展開した。同9年に古河公方家の内乱と連動し、山内上杉氏では憲房(のりふさ)が、古河公方家では高基が優位を確立した。足利政氏は古河城から下野小山城(栃木県小山市)に退去した。直後の8月、宗瑞は再び扇谷上杉氏領国への侵攻を開始し、同年のうちに相模のほとんどを経略する。

 

 長尾為景は同10年から主家上杉定実との抗争を展開し、同11年に屈服させ、事実上の越後国主の地位を確立した。同12年からは越中侵攻を開始している。

 

 武田信虎は、同12年から敵対勢力を支援する今川氏の進軍をうけ、同14年にようやく退陣させている。

 

 同13年7月、宗瑞は扇谷方の相模三浦氏を滅ぼして相模一国の経略を遂げる。同年12月、小山(おやま)城の足利政氏は小山氏の離叛により、武蔵岩付(いわつき)城(埼玉県さいたま市)に移ったが、なお高基方への対抗を続け、庶長子の足利義明を政治的後継者にすえた。しかし同15年4月に扇谷上杉朝興(ともおき)が死去したことで、政治的に引退し、これにより永正の乱は終息した。そして足利義明は同年7月に、下総小弓城(千葉県千葉市)に拠り、新たに小弓(おゆみ)公方家を創立させた。

 

監修・文/黒田基樹

『歴史人』202210月号「戦国武将の勢力変遷マップ」より)

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