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小田原攻めによる北条氏の滅亡と関東諸将のその後

戦国武将の領土変遷史⑩

小田原合戦で北条氏が滅亡し関東の勢力が一掃される

神奈川県足柄下郡箱根町の早雲寺にある、北条早雲~氏直までの5代にわたる墓。寛文12年(1672)に狭山藩当主の北条氏治が建てた。

 北条氏は徳川家康(とくがわいえやす)との同盟により、上野領有権を確保し、徳川方国衆真田氏の沼田領を割譲されることになった。しかし真田氏は北条氏への帰属を拒否したため、北条氏は天正10年(1582)12月、沼田領経略のため北上野に進軍した。

 

 同11年正月、参陣に応じなかった上野厩橋(うえのまやばし)毛利北条氏を攻撃した。毛利北条氏は上杉氏に従属し、また佐竹方勢力に支援を求めた。氏直は9月に毛利北条氏を攻略、続けて下野に進軍した。

 

 11月、織田政権で主導権を握った羽柴秀吉(はしばひでよし)は、徳川家康に「関東惣無事(かんとうそうぶじ)」実現を要請、家康はこれを北条氏に通達した。これにより北条氏は、秀吉に従属するか対戦するかの選択を迫られることになった。

 

 同12年3月から11月まで、徳川家康は織田信雄(のぶかつ)に味方し、秀吉と対戦し、小牧・長久手合戦を戦った。その間の4月から7月、北条氏は下野藤岡・沼尻(栃木県佐野市)で佐竹方と対戦した。すでに佐竹義重(さたけよししげ)らは秀吉と同盟していた。北条氏は家康との同盟により援軍派遣を予定していたが、佐竹方との対戦のため実現できなかった。

 

 また上杉景勝(うえすぎかげかつ)は前年に秀吉に従属していて、その命により佐竹方支援のため関東への出陣の姿勢をみせた。そのため北条氏は佐竹方と和睦し、退陣した。

 

 その後は、前年に離叛していた上野新田由良氏・館林長尾氏攻略をすすめ、同13年正月に両氏を従属させた。これにより真田氏以外の上野国衆をすべて従属させ、続けて下野国衆の従属をすすめていった。

 

 同14年に徳川家康が秀吉に従属し、北条氏は秀吉との対戦態勢をとっていく一方で、家康を通じて秀吉への従属交渉をすすめた。そして同16年5月に秀吉への従属を表明、8月に氏政弟氏規(うじのり)を使者として派遣した。

 

 これにより北条氏は秀吉に従属することが決定され、秀吉から佐竹方に北条氏との停戦が命じられ、「関東惣無事」が実現した。北条氏は、従属にあたり氏政が出頭すること、その条件として上野沼田領の帰属を要請した。

 

 同17年7月、秀吉は沼田領帰属を裁定し、沼田領三分の二を真田氏から北条氏に割譲させた。しかし10月、北条家臣猪俣邦憲(いのまたくにのり)が真田領に侵攻したため、秀吉は12月に北条氏追討を決定した。

 

 北条氏は秀吉に弁明したが受容されず、そのため秀吉軍への迎撃態勢をとった。同18年、秀吉は北条領国に侵攻し、北条氏は小田原城で篭城戦を展開したが、7月に氏直は降伏、出頭し、北条氏は滅亡した。

 

150年にわたる関東戦国史の終焉と、その後の諸氏の動向

 

 小田原合戦により、北条氏は滅亡し、その領国は、従属下の国衆の領国ともども、すべて改易された。

 

 唯一、秀吉直臣になっていた天徳寺宝衍(てんとくじほうえん)が継承した下野佐野家のみ、存続が認められた。

 

 また、沼田領については真田氏に返還された。それ以外の領国は、徳川家康に与えられ、家康は駿河・遠江・三河・甲斐・信濃五ヶ国から関東六ヶ国に転封され、江戸城を本拠にした。領国高は240万石とされ、秀吉配下の大名として筆頭の存在になった。

 

 古河公方足利氏は、天正10年に義氏が死去してから当主不在であったが、これも改易された。ただし里見氏に庇護(ひご)されていた小弓公方足利氏との合体がはかられ、義氏娘の徳源院殿は小弓公方足利頼淳(よりあつ)の子国朝(くにとも)、次いで頼氏と結婚し、国朝・頼氏には下野喜連川(きつれがわ)領が与えられ、喜連川足利氏として存続されることになる。

 

 北条氏は、合戦により隠居氏政は切腹したが、当主氏直は助命され、高野山に隠遁させられた。しかし同19年、舅(しゅうと)の家康の取り成しにより秀吉直臣に取り立てられ、1万石を与えられた。

 

 やがては一国を与えられる予定であったが、同年のうちに病死、絶家された。所領は叔父氏規・氏盛父子に継承され、やがて河内狭山(大阪府大阪狭山市)を本拠とする大名として存続した。

 

 佐竹氏は、従属下の国衆領国を含めて、領国として認められ、同19年には水戸江戸氏・石岡大掾(だいじょう)氏などを誅殺(ちゅうさつ)して、領国化をすすめた。常陸のうち、牛久領と結城秀康(ゆうきひでやす)領国を除く地域が領国とされ、下野の一部地域を含めて領国高は54万石とされた。慶長5年(1600)の関ヶ原合戦で家康に味方しなかったため、同7年に出羽秋田20万石に転封された。

 

 里見氏は、秀吉への参陣の際の不手際により、上総の領国部分を没収され、安房一国のみを安堵された。その後、慶長7年に常陸鹿島領を加増されるが、同19年に伯耆倉吉領に転封された。

 

 結城氏は、家康実子の秀康を養子に迎え、常陸の旧小田領、下野の旧小山領を加増されて、関東での有力大名となった。関ヶ原合戦の結果、越前68万石に加増転封された。下野では佐野氏のほか、宇都宮氏が領国を安堵されたが、のちにともに改易されている。

 

 上杉氏は、越後・佐渡・信濃北部・出羽南部の領国を認められていた。慶長3年に陸奥会津120万石に転封され、越後・信濃北部の領国を返上し、会津若松城(福島県会津若松市)を本拠にした。さらに関ヶ原合戦の結果、出羽米沢30万石に減知転封された。

 

監修・文/黒田基樹

『歴史人』202210月号「戦国武将の勢力変遷マップ」より)

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