致命傷となった高天神城落城と武田氏の滅亡
武田三代栄衰記⑮
高天神城に援軍を送る余裕をなくしていった勝頼

高天神城跡
武田家滅亡に大きな影響を与えたとされる高天神城落城。勝頼は家康に包囲されたこの城を後詰せず、その威信を著しく低下させた。
天正5年、勝頼は高天神城主小笠原信興(のぶおき)を駿河に転封(てんぽう)し、代わりに今川旧臣の岡部元信を同城に入れた。高天神城(たかてんじんじょう)は遠江における最前線であったから、家康から離叛して勝頼に服属した小笠原信興の動向は懸念材料であった。同時に、家康の脅威から保護する必要もあったといえる。
勝頼は陸上交通だけでなく、海上交通の拠点でもある高天神城を重視し、全領国から将兵を集め、元信の指揮下に配置した。ただ、北条氏との同盟崩壊後、徳川氏の攻勢は強まり、天正7年より徳川勢の包囲下に置かれた。家康は付城(つけじろ)を多く築いたが、関東における攻勢と、駿河防衛で手一杯の勝頼は、高天神に援軍を送る余裕をなくしていった。
天正8年4月、ついに本願寺顕如が、織田信長との講和に応じ、大坂を退去した。長男教如(きょうにょ)はなおも抵抗するが、7月に籠城を断念した。ここに武田氏は、上方における同盟国をすべて失った。信長は畿内制圧を果たし、武田領侵攻をいつでも行える情勢となった。勝頼は信長との和睦交渉を続けるが、信長の対応は門前払いに近かった。
翌5月、北条勢が甲斐都留(つる)郡西原(さいばら)に侵攻した。かつて信玄は、一度たりとも甲斐侵入を許さなかった。甲斐が戦場になったのは、天文8年(1539)以来だから、実に41年ぶりである。勝頼だけでなく、甲斐の人々に与えた衝撃は、計り知れないものがあったろう。
天正8年末、越後の再統一を果たした上杉景勝は、越中侵攻への軍事支援を勝頼に求めた。しかし、勝頼はそれどころではないというのが本音であったろう。遠江高天神城への攻勢が強まり、家康は外との連絡ができぬよう、包囲網を固めた。
信長はおろか、勝頼の予想も超えた高天神城落城の衝撃
天正9年1月後半、岡部元信(もとのぶ)は高天神に加えて、自身が管轄する滝堺・小山(こやま)両城の引き渡しを条件に、城兵の助命を嘆願する矢文(やぶみ)を放った。これは、遠江東端に残された武田領をすべて引き渡すことを意味する。
この頃の家康は、天下人織田信長に服属し、織田一門の大名と処遇されていた。そのため、信長に開城の是非を相談すべく、使者を出した。
信長の返事は、降伏を拒絶してもらえないか、というものであった。信長は勝頼は援軍を出せないだろうという見通しを述べた上で、①勝頼が援軍として出陣してくれば、決着をつけることができる、②出馬せずに高天神城や小山・滝堺城を見捨てるようであれば、その噂によって勝頼は駿河の端々の小城まで保つことはできなくなるだろう、とその目論見を述べた。高天神城を見殺しにすれば、勝頼の信用は地に堕ちるだろうというのだ。
3月22日、高天神城は援軍を得られないままに落城した。岡部元信率いる城兵は徳川勢に突撃し、ほぼ全員が討死した(高天神崩れ/たかてんじんくずれ)。
高天神落城が武田家中に与えた衝撃は、信長はおろか、勝頼の予想を遥かに超えたものとなった。勝頼は目付として派遣していた横田尹松(ただとし)から報告を受けたが、籠城衆は全滅といってよい。問題は、勝頼が武田領国すべてから、将兵を集めて高天神を堅めていた点にあった。悲報は、駿河どころか、全領国に広まった。
その状況をもっとも深刻に捉えたのは、駿河に配置されていた諸将であろう。江尻城代穴山梅雪(ばいせつ/信君/のぶただ)、興国寺(こうこくじ)城代曾禰昌世(そねまさただ)の両名は、早くに信長・家康へ内通した。
翌4月、都留郡棡原(ゆずりはら)が北条勢の侵攻を受けた。この頃には、勝頼の援軍が岩殿(いわどの)城に派遣されている。郡内の国衆小山田信茂(おやまだのぶしげ)が、支援を求めたとみてよい。事態は深刻であった。
勝頼は信濃の守りを固めるため、弟仁科信盛(盛信)を高遠城に配置した。また、新たな本拠として新府城(しんぷじょう)を築き、12月24日に入城した。
関東では里見義頼(よしより)が同盟に応じ、伊豆戸倉(とくら)城が武田氏に寝返るなど、武田氏優位の情勢が続いていたが、いつ織田勢の侵攻があってもおかしくない状況になりつつあった。
きっかけを作ったのは、妹婿の木曾義昌(きそよしまさ)である。美濃国境に位置する木曾氏は、織田勢の脅威に晒されている。生き残りを図るには、信長に服属するしか道はなかった。
新府城を捨て岩殿城を目指すも行き場を失い妻子とともに自害

勝頼主従の墓
武田勝頼終焉の地、甲州市の景徳院内にある勝頼(写真中央)と嫡男・信勝(同左)、北条夫人(同右)の墓石が並んでいる。石碑にはそれぞれの辞世の句が刻まれている。
天正9年12月、信長は家康ら重臣に対し、甲州攻めの準備を促した。
天正10年1月、木曾義昌謀叛(むほん)が発覚し、勝頼は信濃に出馬する。しかし木曾義昌が岐阜城の織田信忠に援軍を要請したことで、かえって織田勢を呼び込む結果となった。
織田勢の信濃侵攻が始まる中、2月14日に浅間山が噴火し、家臣の動揺は激しくなる。勝頼は上杉景勝に援軍を求めるが、上杉勢の動きは鈍かった。徳川勢に続き、北条勢の侵攻も始まり、状況は悪化する。
2月末、穴山梅雪謀叛の報を受け、勝頼は新府に撤退した。信濃の諸城は次々と降伏・開城し、抵抗したのは、高遠城のみであった。
3月3日、勝頼は新府城を焼き払って、郡内岩殿城を目指した。しかし、小山田信茂に受け入れを拒まれてしまう。
11日、勝頼は田野(たの)において妻子とともに自害した。享年37。ここに、武田氏は滅亡したのである。
監修・文/丸島和洋
(『歴史人』12月号「武田三代」より)