なぜ勝頼は「長篠合戦」へ出陣し、敗北に至ったのか?
武田三代栄衰記⑫
家督継承後、悩まされた年の離れた宿老層との関係

復元された馬防柵
設楽原に到着した織田・徳川軍は連吾川の西に陣を敷き、川沿い約2㎞にわたる平地部分に馬防柵を設置し、武田軍の騎馬隊を鉄砲による攻撃で迎え撃った。
新当主である勝頼にとって最大の問題点は、それまでの彼の立場であった。
多くの戦国大名は、嫡男が20歳くらいになると隠居を表明し、家督を譲り渡す。隠居といっても楽隠居ではなく、最高権力者としての地位は変わらない。父子の役割分担や、家督継承の円滑化などが目的だ。
ただ信玄は、死ぬまで隠居することをしなかった。義信にせよ、勝頼にせよ、内政面での権限を委ねられ、継承した形跡はほとんどない。外交面で、後継者として活動していたに留まる。軍事面でも同様で、勝頼は信玄死去まで、自身が総大将として出陣してはいない。
家督継承時、勝頼は、28歳であった。それに対し、信玄が取り立てた宿老層は、60歳から50歳前後である。今まで信玄の後継者ではあるが、戦場ではほぼ同格の扱いであった勝頼を、突如主君として仰ぐという意識転換は容易ではない。
つまり勝頼が当初悩まされたのは、親子ほど年の離れた宿老層との関係であった。義信事件の傷も癒えてはいない。
勝頼は積極攻勢に出て、勝利を積み重ね、「実績」を見せつける必要があった。信玄が死去した天正元年、信長の反撃で、朝倉・浅井・三好本家といった同盟国が滅ぼされ、足利義昭も京を追われた。その間、何の支援も行えなかった事実も重い。
天正2年、勝頼は東美濃と遠江で攻勢に出た。後者では、一度信玄に降伏していたものの、徳川に再度従った高天神城(たかてんじんじょう)を降伏に追い込む。
天正3年、本願寺と三好康長から、信長侵攻が間近であると、支援要請が届いた。天正2年には伊勢長島一向一揆の救援も失敗していたから、今度こそ支援を行わないと、戦国大名としての面目が立たない。
同じ頃、三河岡崎城主松平信康(家康の嫡男)の側近たちと、岡崎奉行大岡弥四郎から、内通の申し出があった。勝頼は、岡崎城を制圧して、尾張に侵攻することで、本願寺・三好を支援しようと考えたのである。
しかし大岡等の内通は発覚して処刑され、勝頼のアテは外れた。そこで勝頼は、目標を信玄死後に家康に奪還された三河長篠(ながしの)城に変更する。
その間家康は、渋る信長の説得に成功した。ここに初めて、織田信長自身と武田勢が戦うこととなる。
膨大な戦死者を出した長篠合戦
信長の最大の関心事は、本願寺の攻略である。味方の損害を減らすため、各家臣から鉄砲足軽を集めた。
もうひとつ信長が懸念していたのは、東国勢の騎馬衆であった。馬の牧(まき)は東日本に偏在しており、東国の大名は騎馬での戦が巧みである。しかし信長領国のある尾張・美濃以西には牧がそもそも少なく、騎馬を用いた戦いも得意ではなかった。
一方、武田氏も鉄砲を重視していたが、火薬に用いる硝石(しょうせき)や、鉛を輸入できる港を持っていなかった。
長篠合戦は、織田鉄砲隊と武田騎馬隊という構図で語られやすい。しかしこれは東西の戦いの違いを、織田と武田に当てはめた誤解である。
長篠城西のあるみ原(はら)に向けて進軍した信長は、できる限り援軍の数を少なく見せかけるよう命じた。その上で、馬防柵を三重に築き、その中に籠もった。様子を探った勝頼は、信長は弱気と判断し、兵力も見誤った。実際には、1万2千であるみ原に進軍した武田勢に対し、織田・徳川勢は4万程であったようだ。
信長は、柵内からの鉄砲迎撃に専念するよう命じた。5月21日早朝、家康の家老酒井忠次(さかいただつぐ)が長篠城包囲陣を破り、勝頼は背後を絶たれる。
あるみ原の戦場は道が狭く、騎馬を使うには不向きであった。その上、柵内からの鉄砲迎撃に専念する織田・徳川勢のほうが数が多い。武田勢は一部の柵の破壊に成功するが、約6時間後、敗勢を悟って退却した。疲弊しきったその背後を大軍に追撃された武田勢は、重臣から雑兵まで、膨大な戦死者を出したのである。
監修・文/丸島和洋
(『歴史人』12月号「武田三代」より)