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信長・家康が警戒した武田勝頼の真価

武田三代栄衰記⑩

江戸以降の勝頼像を形作ったベストセラー本『甲陽軍鑑』

甲陽軍鑑
甲州流軍学の教科書。諸説あるが、主筆者は高坂弾正で、小幡景憲が編纂したとされる。誤情報も多く、史料としての信憑性は低いが、本書からのみ伺いしれる情報も少なくない。

 武田信玄・勝頼2代の歴史を記した『甲陽軍鑑(こうようぐんかん)』が成立したのは、江戸初期のことである。甲州流軍学書のテキストとして、江戸時代のベストセラーのひとつとなった。

 

 同書の原型は、信玄・勝頼に仕えた宿老春日虎綱(かすがとらつな)が、天正3年(1575)の長篠合戦大敗後、勝頼側近を諌(いさ)めるために書かれたという。

 

 同書においては、信玄の正しさが強調され、その方針を改めようとした勝頼の非が、側近の責任という形で糾弾(きゅうだん)されている。同書は、勝頼を「強すぎたる大将」と評する。戦には強いが、同時に自負心が強すぎ、家臣の意見を聞かずに強引な戦をしてしまう。結果として、国を滅ぼす大将なのだ。これが『甲陽軍鑑』の勝頼評であり、江戸時代以後、現代に至るまでの勝頼像を形作った。

 

 同書の記述は、当時まだ健在であった武田旧臣にも受け入れられた。勝頼が賄賂(わいろ)に耽(ふけ)る側近を重用し、密室政治を行ったという声は、滅亡直後から上がっていた。旧臣たちは、強大な武田家が滅んだ理由を模索していたのだろう。『甲陽軍鑑』の記述は、武田旧臣にとって受容しやすい「歴史」であったのだ。

 

 ただそれが、事実かどうかは別だ。勝頼の実像は果たしてそのようなものだろうか。

 

広く耳を傾け、公正な判断を下そうと尽力する為政者

 

 一般に、武田氏は長篠合戦の大敗で滅亡に向かったとされる。しかし実際には、勝頼はその後武田氏を建て直し、信玄期を上回るほどの領国を築き直すことに成功している。

 

 そもそも長篠合戦が起きたきっかけのひとつは、徳川家中の親武田派が内通を申し出たことにある。信玄に劣らぬ勝頼の攻勢に、徳川家中は揺れていた。

 

 織田信長も天正2年、「四郎(勝頼)は若輩ではあるが、信玄の掟を守り謀略(ぼうりゃく)を用いるだろうから、油断ならない」と警戒を強めている。

 

 家臣の意見に耳を傾けないという批判はどうだろう。天正6年、信濃筑摩郡内田郷と小池郷の間で、入会地(いりあいち)をめぐる相論が生じた。

 

 内田郷の領主桃井将監(もものいしょうげん)が、小池郷住人の入会地利用を拒絶したのがきっかけである。小池郷住人は、甲府に直訴したが、桃井将監は勝頼の従兄弟武田信豊の姪婿(めいむこ)である。桃井の圧力で、武田氏の公事奉行(くじぶぎょう)は裁決を先延ばしにしたという。

 

 しかし翌年、小池郷住人は甲府に乗り込んで直訴に及んだ。今度は訴訟は受理されたが、肝心の勝頼は、湯治に出かけて留守であった。

 

 湯治場で経緯を聞いた勝頼は、この件を放置しなかった。従兄弟で幼なじみの武田信豊への「忖度(そんたく)」が許せなかったのかもしれない。両郷住人を自身の湯治場まで召し寄せた上で、一転して小池郷勝訴とした。

 

 こうした村境をめぐる相論は日常的に起こるものであり、勝敗を決めることは、不満の種となる。そこで勝頼は、神慮(しんりょ/神の考え)を聞くために御嶽(みたけ)・甲府全桜社の鐘を突いて誓約せよと命じた。ただ百姓の望みを聞き、結局、信濃小野の鐘でよいとした。小野社の鐘は、実は勝頼が若い頃に奉納したものである。

 

 ここから浮かぶ勝頼の実像は、広く耳を傾け、公正な判決を下そうと尽力し、休養中でも政務を疎おろそかにしない為政者(いせいしゃ)だ。百姓にまで配慮する姿は、勝頼像を一変させる。

 

 高野山に奉納され、持明院に伝わる勝頼の寿像(生前像)は、後妻桂林院殿(けいりんいんでん/北条氏康娘)と嫡男(ちゃくなん)信勝とともに描かれる。そこからは、家庭人としての勝頼も浮かんで来る。

 

 勝頼研究の進展は、2000年代以後だが、一定の蓄積を得た。そろそろ、古典的な勝頼理解から脱却する時期が来たといえるだろう。

 

監修・文/丸島和洋

『歴史人』12月号「武田三代」より)

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