「諏方四郎勝頼」として育てられた武田勝頼の実際の地位
武田三代栄衰記⑪
諏方頼継の名跡を継ぎ、高遠城に入城した勝頼

桜雲橋(ろううんきょう・高遠城址)
高遠城址にある桜雲橋。永禄5年(1562)、17歳の諏方四郎勝頼は、信玄の弟で諏方郡代だった武田信繁の戦死を受けて高遠城主となる。武田氏の支配を目論む信玄に利用され高遠に配された。
勝頼は信玄の四男で、生母は諏方頼重(すわよりしげ)の娘乾福寺殿(けんぷくじでん)である。天文10年(1541)に父信虎を追放して家督(かとく)を継いだ信玄は、翌11年に妹聟(むこ)であった諏方頼重を急襲し、自害に追い込んだ。頼重が、武田氏を出し抜く形で佐久郡に領国を拡大したことを許さなかったのである。
こうした経緯から、頼重の遺女と信玄の婚姻は、武田家臣からも、諏方旧臣からも歓迎されなかったとみられることが多い。
ただ信玄は、諏方一門・旧臣に対して、頼重の遺児寅王(とらおう/信玄の甥)による諏方氏再興を約束していた。このため、乾福寺殿の輿入れは、むしろ諏方衆の待遇改善につながると期待されただろう。
ところが天文15年、諏方頼重の叔父満隆(みつたか)が謀叛(むほん)を起こし、自害した。この年こそ、勝頼の誕生年である。寅王は、その後出家させられたと伝わる。諏方の掌握に自信を持った信玄は、勝頼誕生を契機に、寅王を出家させたのではないか。約束違反に怒った満隆は謀叛を起こしたが、特に同調者は確認できない。
その後、勝頼が寅王の代わりに諏方氏の家督を継いだものの、諏方衆の不満を考慮し、伊那郡高遠(たかとお)城に入ったというのも事実ではない。勝頼の高遠入城は、諏方氏庶流高遠諏方頼継の名跡を継いだためである。
ただ、武田氏は服属した国衆の中心人物を「惣領(そうりょう)」と認め、厚遇する政策をとっていた。高遠諏方氏継承時、勝頼は同時に諏方氏惣領職を継いだのだろう。これが、諏方氏の家督継承と誤解されたのだ。
だから、勝頼が掌握したのはあくまで保科(ほしな)氏・上林(かんばやし)氏を筆頭とする高遠衆であった。勝頼は、国衆高遠諏方氏の勢力をそっくりそのまま継承した。そして伊那郡高遠城に入ったからこそ、「諏方四郎」「伊奈四郎」と呼ばれたのである。
弘治元年(1555)に死去した生母乾福寺殿の墓は、高遠の建福寺に所在する。また乾福寺殿の生母麻績(おみ)氏は、太方様(おだいほうさま)と尊称されて厚遇を受け、高遠城で暮らしていた。
勝頼の元服(げんぷく)と高遠入城について、『甲陽軍鑑』は永禄5年(1562)6月とする。これに従えば、勝頼元服は17歳となる。
「諏方氏惣領」を優先させながらも別格だった勝頼の地位
では勝頼の立場はどのようなものであったのだろうか。実は信玄は、「高遠諏方勝頼」について、嫡男義信に次ぐ子息として扱っている。次男の龍芳(りゅうほう)は疱瘡(ほうそう)で失明し、三男は早逝したため、勝頼は事実上の次男という立場を得ていた。
だからこそ、永禄8年に織田信長と同盟を結ぶ際、信長の養女龍勝寺殿(りゅうしょうじでん/信長の姪、遠山直廉/なおかど/娘)が勝頼に嫁いだのだ。勝頼が諏方氏出身として軽んじられた事実はない。彼は武田一門、事実上の次男と処遇されていた。
ただ、高遠諏方氏に養子入りした結果、勝頼の実名には武田氏が代々用いた通字(つうじ)「信」字は入らなかった。信玄は代わりに自身の幼名勝千代から「勝」字を与え、諏方氏の通字「頼」と組み合わせた。この時期の武田一門はいずれも「信」字を用いているから、勝頼は確かに異例だ。
おそらく信玄は、勝頼に「諏方氏惣領」として、高遠衆を掌握させることを優先させたのだろう。勝頼が武田氏の家督を継ぐことを想定していなかったためだ。
だから勝頼は、高遠領の内政に励んだ。入部直後の永禄5年9月には、現地の土豪埋橋(うずはし)氏に代替わりの安堵状を与えた。永禄7年には、信濃二宮小野神社に梵鐘(ぼんしょう)を奉納した。鐘銘には、「大檀那諏方四郎神勝頼」とあり、武田氏の源姓ではなく、諏方氏の神姓を前面に押し出している。
注目したいのは高野山成慶院(じょうけいいん)に与えた証文で、印文「勝頼」の朱印を用いている。当時大振りで権威的な朱印使用を許されていたのは、武田一門でもごく一部であった。やはり勝頼の地位は、別格なのである。
監修・文/丸島和洋
(『歴史人』12月号「武田三代」より)