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信玄・信長・家康の攻防と秀吉の台頭

戦国武将の領土変遷史⑬

着々と版図を拡大していく信長

元亀3年、甲斐の武田信玄が西上を目指し、徳川家康の本拠・三河に侵攻を開始。信長の支援が遅れた家康は劣勢となり、次々と信玄に侵攻を許すこととなった。伝・武田信玄像/東京国立博物館蔵、出典:Colbese

 永禄10年(1567)に美濃の岐阜を本拠とした織田信長(おだのぶなが)は、翌年には伊勢に進出している。このころ、足利義昭(あしかがよしあき)から上洛の支援を要請されていた信長は、上洛する際に背後を衝かれないよう、伊勢を制圧しようとしたのである。

 

 伊勢では北部を支配する関(せき)氏・長野氏・神戸(かんべ)氏、南部を支配する北畠(きたばたけ)氏が割拠していた。こうした国人の抵抗をうけた信長は、長野氏に弟の信包(のぶかね)、神戸氏に三男の信孝(のぶたか)を養子として送り込むことで北伊勢の平定に成功。背後を固めた信長は永禄11年、足利義昭を奉じて上洛することに成功したのだった。

 

 その後、信長は南伊勢への進出を図る。南伊勢を支配していたのは、南北朝時代から国司として伊勢を治めてきた北畠氏である。北畠氏の抵抗を受けた信長は、次男の信雄(のぶかつ)に北畠氏を継承させる条件で和睦をした。

 

 こうして、伊勢では、北伊勢を織田信孝、南伊勢を織田信雄が支配することになり、さらに信雄は伊賀に侵攻して領国に加えている。

 

 そのころ、三河の徳川家康(とくがわいえやす)は遠江の平定に乗り出していたが、駿河を武田領、遠江を徳川領とする密約を反故にした武田信玄(たけだしんげん)が遠江にまで進出してくる。このため、家康は岡崎城から浜松城に居城を移し、信玄に対峙することにした。

 

 信玄はそれまで信長と同盟を結んでいたが、元亀3年(1572)、信長に対して挙兵した足利義昭の要請をうけ、家康の領国である遠江に侵攻してくる。二俣(ふたまた)城など家康の支城を落としながら家康の居城である浜松城に向かった武田氏の軍勢は、浜松城を包囲せず、西へ向かう。

 

 このとき、家康は浜松城に籠城することなく、武田軍を追って三方ヶ原(みかたがはら)へ出陣。これは、信長が無傷の武田軍と衝突することを避けるためであったとみられるが、家康自身も、三方ヶ原の台地を下る武田軍を追撃することで勝機を得ようとしたものであるらしい。

 

信玄の死、武田家の滅亡、そして信長の死で東海は混乱

 

 この三方ヶ原の戦いは、徳川軍の完敗であったが、翌天正元年(1573)には信玄が陣没し、武田軍は本拠の甲斐に帰還した。

 

 とはいえ、家康は武田軍、武田家を継承した信玄の子・勝頼(かつより)による圧力を受けるようになり、遠江の高天神(たかてんじん)城を奪われることになった。

 

 東遠江を制圧した武田勝頼が長篠(ながしの)城の奪還を図ろうとしたことから、家康は信長に救援を求める。こうして天正3年、長篠城の西方に位置する設楽ヶ原(したらがはら)で織田・徳川連合軍と武田軍との間で決戦となる。この長篠・設楽ヶ原の戦いに勝利した信長と家康が武田氏を圧倒し、高天神城も取り戻している。

 

 家康に攻められた高天神城に対し、救援ができなかった勝頼の勢威は失墜し、ついには信長に寝返る武田氏の家臣も現れる。これを機に信長は、天正10年、家康とともに甲斐へと侵入し、武田氏を滅ぼす。この甲州攻めの戦功で、家康は武田氏の旧領であった駿河を手中におさめている。

 

 本能寺で信長が討たれたのは、その3か月後のことだった。本能寺の変が起きたとき、京に向かっていた家康は伊賀越えによって岡崎への帰還を果たし、軍勢を整え尾張に向かうも、山崎の戦いで豊臣秀吉(とよとみひでよし)が明智光秀(あけちみつひで)を破ったことを知り、引き返している。

 

 その後、北条氏政(ほうじょううじまさ)と信長の遺領であった甲斐・信濃・上野(こうずけ)の領有をめぐって争うと、和睦により家康は甲斐・信濃を、北条氏政は上野を獲得した。

 

 山崎の戦い後、信長の後継者と遺領配分を決める清須会議が開かれた。信長の次男・信雄は尾張・伊賀と南伊勢を領有することになり、三男の信孝は美濃一国を譲られることになった。

 

 このいわゆる清須会議では、信長の嫡男・信忠(のぶただ)は、父・信長と同じく自害していたため、信長の孫にあたる三法師(さんぽうし/のちの秀信)が家督を継ぐことになった。しかし、三法師はわずか3歳であり、信雄と結んだ豊臣秀吉と、信孝と結んだ柴田勝家(しばたかついえ)が対立することになる。

 

 この対立はおさまることなく、本能寺の変から6か月しかたっていない12月には信孝が岐阜城で挙兵。しかし、越前を本領とする柴田勝家が積雪のために援軍を送ることができず、信孝は秀吉に降伏した。

 

 翌天正11年2月、秀吉は信長の忠臣であった柴田勝家と結ぶ滝川一益(たきがわかずます)を討つため、伊勢に侵攻した。

 

 すると、秀吉との対立をますます深めていた柴田勝家が近江に向けて出陣。越前と近江の国境に位置する賤ヶ岳(しずがたけ)で戦いとなる。この賤ヶ岳の戦いに勝利をおさめた秀吉は、勝家と信孝を自害に追い込んだ。

 

監修・文/小和田泰経

『歴史人』202210月号「戦国武将の勢力変遷マップ」より)

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