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小牧・長久手の戦いと関ヶ原合戦前後の東海勢力変遷

戦国武将の領土変遷史⑭

家康は関東へ移封し秀吉の重臣たちが東海へ

小牧・長久手の戦いにおいて、徳川家康は廃城となっていたこの小牧山城に本陣を置き、鉄壁の城として整備。その堅固さに秀吉軍は攻略することができなかった。写真は現在の模擬天守で、内部は小牧市歴史館となっている。

 賤ヶ岳(しずがたけ)の戦い後、敗者側の遺領配分により、信孝の遺領である美濃は池田恒興(いけだつねおき)に与えられ、北伊勢を併合した信雄(のぶかつ)は長島城を居城としている。

 

 東海地方は伊勢の長島城を本拠とした織田信雄と、遠江の浜松城を拠点とした徳川家康が双璧となる。賤ヶ岳の戦いまで、信雄も家康も、豊臣秀吉とは友好的な関係を続けており、家康は賤ヶ岳の戦いの戦勝祝いと称して、名物茶器「初花肩衝(はつはなかたつき)」を秀吉に贈っている。

 

 ただ、賤ヶ岳の戦いで対立した織田信孝・柴田勝家を滅ぼした秀吉が、織田家中の実権を握り、信雄の勢威を衰えさせようと画策し始めたことから、家康も秀吉とは距離をおくようになる。秀吉は、信雄の家老である津川義冬(つがわよしふゆ)・岡田重孝(おかだしげたか)・浅井長時(あざいながとき/田宮丸)を味方に引き込もうと調略したらしい。

 

 三家老が秀吉に内通したと判断した信雄は、天正12年(1584)3月、居城・伊勢長島城に三家老を呼び出すと、問答無用に誅殺(ちゅうさつ)してしまう。これは、秀吉に信雄に対する挙兵の口実を与えることになってしまったのである。

 

 すぐさま大坂城を出陣した秀吉は、尾張国の楽田(がくでん)に布陣した。軍勢の総数は、一説に10万であったという。一方の信雄は、家康に支援の約束を取り付けていた。信長の同盟者であった家康は、信長の家臣にすぎなかった秀吉が信長の後継者として地位を固めることを苦々しく思っていたからである。

 

 伊勢から出陣した信雄は清須城で家康と合流し、尾張の小牧山(こまきやま)城を本陣とした。軍勢の数は合わせて3万余であったという。こうして、秀吉と信雄・家康連合軍が小牧一帯で対峙。一方、秀吉は膠着状態を打開するため、別働隊を家康の本国三河に送って攪乱(かくらん)することを決定する。この作戦を見抜いた家康は、長久手(ながくて)で秀吉の別動隊を破っている。

 

 この小牧・長久手の戦いで、局地戦に勝利したのは家康だった。しかし、信雄が秀吉と単独で和睦してしまう。和睦といっても、実質的には信雄の降伏であり、信雄が失った南伊勢には、秀吉の側近・蒲生氏郷(がもううじさと)が入っている。

 

 信雄が秀吉と和睦したことで大義名分を失った家康も、和睦に応じざるを得なくなった。そのため、家康は次男の秀康(ひでやす)を秀吉のもとに養子という形で送っている。実質的な人質であったことはいうまでもない。

 

 こののち、秀吉は家康に対して上洛を要請するものの、家康が従うことはなかった。上洛するということは、秀吉に従うことを意味したからである。

 

 しかし、そうこうしている間に秀吉は関白に任ぜられ、天下人となった。家康は、北条氏政と同盟することによって、秀吉を牽制しようとする。しかし、秀吉の妹・旭姫(あさひひめ)を正室にすることを強要され、さらに旭姫を見舞うという名目で秀吉の母・大政所(おおまんどころ)が家康のもとに送られてくるにおよび、家康は上洛し、秀吉に臣従を誓ったのだった。

 

 家康は、秀吉に服属したころには浜松城から駿府城に居城を移していた。三河・遠江・駿河・甲斐・信濃5か国の大名となっており、関東の北条氏との連携も考えていただろう。

 

 家康は北条氏政との同盟を維持していたものの、北条氏政のほうは上洛を拒絶し続け、天正18年、秀吉による小田原攻めを受けてしまう。

 

 北条氏が小田原城を降伏開城すると、その遺領であった関東が家康に与えられ、江戸城を居城に。それにともない、家康の旧領には駿府城に中村一氏(なかむらかずうじ)、掛川城に山内一豊(やまうちかずとよ)、浜松城に堀尾吉晴(ほりおよしはる)、吉田城に池田輝政(いけだてるまさ)、岡崎城に田中吉政(たなかよしまさ)といった秀吉に近い大名が入城している。

 

 また、織田信雄は転封を拒否して改易となり、その旧領は秀吉の甥・秀次(ひでつぐ)の所領に組み込まれたあと、福島正則(ふくしままさのり)に与えられている。

 

 秀吉の死後、家康は実権を握ると、慶長5年(1600)、会津の上杉景勝(うえすぎかげかつ)に謀反(むほん)の疑いがあるとして出兵する。しかし、家康らが下野(しもつけ)の小山に着いたとき、石田三成(いしだみつなり)の挙兵を知り、軍評定を行った。いわゆる小山評定(おやまひょうじょう)において、掛川城主の山内一豊が自らの居城を家康に提供すると申し出たことで、東海道筋の大名の居城が明け渡され、城と兵糧が提供されることになったと伝わる。

 

 家康を総大将とする東軍は、東海道筋の城で兵糧の補給を受けながら西進し、福島正則の清須城に集結した。この清須城を拠点に、西軍・織田秀信(ひでのぶ)の岐阜城を落とすと、三成が籠城としていた大垣(おおがき)城を包囲しようとする。このとき、大垣城を出た三成率いる西軍の主力が近江との国境に近い関ヶ原(せきがはら)に転身したことで、関ヶ原の戦いがおきたのである。

 

監修・文/小和田泰経

『歴史人』202210月号「戦国武将の勢力変遷マップ」より)

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