強大な軍事力・経済力で畿内を支配した「三好長慶」
戦国武将の領土変遷史⑱
群を抜く経済力を背景に三好氏が勢力を拡大!

徳島県三好市三野町芝生にある「三好長慶公生誕之地」碑。現地は三好長慶の生誕地といわれる。
永正17年(1520)、三好之長が細川高国(政元の養子のひとり)に敗れ、処刑されると澄元はふたたび阿波へ落ち延びたが失意の内に病死。澄元の子・晴元(はるもと)は享禄4年(1531)、高国を摂津天王寺の戦いで滅ぼすと、義稙の子・足利義維(よしつな)を奉じる政権を樹立した(後述「堺幕府」)。
そもそも三好氏は鎌倉幕府の阿波守護だった小笠原(おがさわら)氏の庶流といわれ、三好郡という山間の地を本貫地とする。阿波は中世から近世にかけて、染め物に使われる藍、材木、造船で栄えたが、三好氏はそれらの収益によって力を蓄えたのだろう。
室町時代に入ると阿波の守護職は細川氏に代わり、三好氏もその守護代となる。その三好家11代目当主だった之長の死後は、その子(孫とも)の元長(もとなが)が澄元の子・細川晴元を擁して大永6年(1526)に阿波から近畿へ進出、高国と戦い、翌年には高国を近江へ敗走させた。これによって晴元が奉じる足利義維の「堺公方(堺幕府)」が成立したのだ。
近江に逃れた12代将軍・足利義晴(よしはる/義澄の子)をよそに堺から京をはじめ摂津・河内・和泉と近畿一円を支配する史上稀な政権が誕生した。堺は阿波から運ばれて来た物資を諸方へ売りさばく商業拠点であり、早くから三好氏と強い結びつきを持っていたことはいうまでもない。
しかし元長の黄金期もつかの間、やがて彼の力は晴元に警戒心を抱かせる。高国討滅後、晴元は本願寺の法主(ほうしゅ)・証如(しょうにょ)に一向一揆の大軍を催させ、一気に堺の元長を攻めて自害に追い込んでしまった。享禄5年(1532)のことである。このとき元長は死を目前にして妻を呼び、「息子を連れて阿波へ落ちろ」と命じた。息子とは当時数え11歳の千熊丸(せんくままる)、のちの三好長慶(ながよし)である。
しかし堺を脱出した長慶が阿波に潜居したのは、わずか1年に過ぎなかった。安宅(あたぎ)氏(熊野水軍安宅氏の分家筋で淡路を根拠地とした)と讃岐の国人・十河(そごう)氏を養子戦略で乗っ取り、紀伊水道と阿波・讃岐の支配権を固めていた三好氏の経済力・軍事力は相変わらず強靱だったのだ。
長慶が病没すると求心力が急激に低下
一向一揆の総元締めである本願寺が細川晴元と対立すると、長慶はその仲裁に乗り出す。晴元の被官となった翌天文3年(1534)、摂津半国の守護代に任じられ越水(こしみず)城を与えられた長慶はこの城を足場に勢力を拡大し、天文18年には細川晴元や13代将軍・足利義輝(よしてる)と刃をまじえて近江に追放する。
4年後の天文22年、彼は本拠を芥川山(あくたがわやま)城に移した。越水城から一歩進んで京に迫り、畿内支配を進めるための移転である。
こうして彼は摂津・山城・丹波・和泉・播磨、淡路から四国の阿波・讃岐に至る一大独裁支配圏を構築する。近江・伊賀・河内・若狭にもその力は及び、伊勢にも侵攻の噂が流れるなど、その力は絶大となっていった。
三好実休(じっきゅう)・安宅冬康(ふゆやす)・十河一存(かずまさ)・野口冬長(ふゆなが)と、阿波・淡路・和泉・讃岐東部・播磨にかけての広い範囲を分担する優秀な弟たち、そして吏務(りむ)に長けた松永久秀(まつながひさひで)や、その弟で合戦上手の松永長頼(ながより)というバラエティに富んだ家臣たちの存在も、その原動力として挙げられるだろう。
永禄3年(1560)、長慶は河内を攻略し、嫡男の義興(よしおき)に芥川山城を与えて飯盛山(いいもりやま)城に移った。だが、その義興が3年後に病死すると、長慶は急速に衰え、実弟の冬康を謀反の嫌疑で誅殺。長慶はあとで彼の無実を知り、後悔しながら病死したという。冬康・一存の死については、松永久秀の讒言・暗殺の噂もあるが、これについては長慶の死後に彼の権勢が極大化した反動も大きかった。
大和支配をめぐり筒井順慶(つついじゅんけい)らと争う久秀と、永禄8年に将軍・足利義輝を襲殺した三好三人衆(長慶死後の三好家を主導する三好長逸/ながやす・三好宗渭/そうい・岩成友通/いわなりともみち)の対立は深まる。
監修・文/橋場日月