徳川家康の軍事ブレーン「徳川四天王」と「大久保忠隣」
「どうする家康」 天下人の選択をささえたブレーンたち 【第2回】
三河からさらなる版図拡大を目指す家康をささえたのは、軍事面を担った武闘派家臣たちだった。酒井忠次(さかいたたつぐ)、榊原康政(さかきばらやすまさ)、本多忠勝(ほんだただかつ)、井伊直政(いいなおまさ)ら「徳川四天王(とくがわしてんのう)」と大久保忠隣(おおくぼただちか)の活躍に迫る!

徳川家康に仕えた20人の主要家臣団を描いた絵画。これ以外にも多くの作品があり、描かれた武将、その数も異なる。「徳川二十将図」出典/ColBase(https://colbase.nich.go.jp/) など
三河全土を掌握して次のステップに進む家康は、譜代家臣団とは異なる新しい家臣団を企図した。軍事ブレーンも酒井忠次(1527~96)をトップとしたいわゆる「徳川四天王」も酒井が隠居すると、井伊直政(1561~1602)・本多忠勝(1548~1610)・榊原康政(1548~1606)の3トップ態勢に変わっていく。中でも井伊には「武田軍団」の象徴であった「赤備え軍」を与えるなどした。そして家康の領国が、駿河(するが)・遠江(とおとうみ)・信濃(しなの)・甲斐(かい)を加えた「5ヶ国時代」からさらに武藏(むさし)・関東への移封「関東入国時代」には、3トップを大大名化して守りを固めた。これ以前に酒井が隠居し、西三河の旗頭であった石川数正(いしかわかずまさ)が秀吉の下に走るなどして、家康には家老職ともいえる存在がいなくなっている。
この時期に頭角を表し、その地位がにわかに重くなっていったのが大久保忠隣(1553~1628)である。忠隣は、家康の古参側近・忠世(ただよ)の嫡男。父・忠世(1532~94)は、長篠(ながしの)合戦などの武功によって遠江・二俣(ふたまた)城主となり、後には小田原6万5千石の城主となった。
忠隣は、三河生まれ。10歳で家康に近習として仕えた。堀川城攻略をはじめ姉川(あねがわ)の戦い・三方ヶ原(みかたがはら)合戦・小牧長久手(こまきながくて)合戦などでいくつか武功も上げている。家康が甲斐・信濃を経略する時期から目立った活躍を始め、後に譜代武功派の代表的な存在となる。こうした才覚を買われ、甲斐侵攻の折に家康に仕えた大久保(土屋)長安(ながやす)を家康は、忠隣に預けた。長安が「大久保姓」を名乗るのは、こうした縁からである。
文禄2年(1593)に家康の3男・秀忠(ひでただ)付きの老職となり、翌年には父の遺領を継ぎ、小田原城主になった。武功派でありながら四天王などとは違った政治感覚を持っていた。
関ヶ原合戦では、東軍の主力を率いた秀忠に従い中仙道を進むが、信州・上田城に籠もった真田昌幸(さなだまさゆき)と戦った。この時、帷幕(いばく)にあった本多正信(ほんだまさのぶ)らと意見が違って、それが後の対立の火種になった。
関ヶ原合戦後に家康の後継者を決める際には、忠隣は秀忠を強く推し、正信は結城秀康(ゆうきひでやす)を推薦した。結果として秀忠が後継者となり、ここでも忠隣と正信は対立したのであった。 この対立が尾を引き、忠隣は本多正信・正純(まさずみ)父子に追い落とされることになる(異説あり)。これは、家康側近として譜代武功派のブレーン・忠隣と、行政的手法の巧者としてのブレーン・正信とが「政敵」となっていった過程を示す逸話である。
現実に、忠隣は譜代武功派のトップに立ち、権勢もあったが、慶長16年(1611)に嫡男・忠常(ただつね)を病で失うと、その権勢に陰りが見え始めた。さらに追い討ちを掛けるように大久保長安が没後に不正蓄財を為したとの理由で一族が切腹など罰せられると、忠隣も関連を疑われ、さらには謀叛(むほん)容疑まで出て、結果として慶長19年(1614)1月に突然忠隣は「改易(クビ)」とされ、近江に配流となる。一代の権勢家もこれでおしまいであった。忠隣は出家して「渓庵道白」と号して寛永5年(1628)6月まで淡々と生きた。享年75。