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鉄砲が勝因となったことで有名な「長篠・設楽原の戦い」の勝敗を分けたのは銃ではなかった⁉

今月の歴史人 Part.4


火縄銃を用いた有名な合戦「長篠・設楽原の戦い」。鉄砲が織田・徳川軍の勝利に大きく貢献したといわれていたが、近年その史実は大きく変わってきたという。


 

■苦しめられた武田氏に会心の大勝利をおさめる

 

武田勝頼
信玄の死で家督を継いだ勝頼は、信玄がかつて滅ぼした諏訪家から迎えた側室の子であったため武田家家臣からの信頼感は薄かったが、度重なる外征により家康の領地を脅かした。(東京都立中央図書館蔵)

 

 甲斐・武田信玄を脅威と感じていた徳川家康が「信玄の死」の報を聞いて、ほっとしたのも束の間、武田氏では信玄の喪を発しないまま、4男の武田勝頼(かつよりが家督を継承。天正元年(1573)11月以降、駿河・遠江への侵攻を繰り返した。これには内因と外因の2つが考えられる。内因とは、まだ20代後半の勝頼を若造と見る宿老たちを見返してやりたい、そのために実績を作らねばとする意気込みで、外因とは対信長同盟にちっとも貢献できていないことへの面目なさである。

 

 天正元年(1573)のうちに淀城の石成友通(いわなりともなり)、浅井(あざい)・朝倉(あさくら)の両氏、河内国若江城の三好義継(みよしよしつぐ)が滅ぼされ、足利義昭も京都を追われたというのに、武田氏は何ら力になってやれなかった

 

 このままで武田氏を頼ろうとする者がいなくなり、天下取りがますます遠のく。勝頼が焦りを募らせるのも、もっともだった。

 

 一方の家康は上杉と織田・徳川が相呼応し、武田を挟撃する方向で秘密裏に交渉を進め、すでに実際の行動に移していたが、肝心要の信長の参加が得られないため、大した成果を挙げられずにいた。

 

 天正2年の信長は多聞(たもん)城の松永久秀(まつながひさひで)を降伏させ、近江国石部城の六角義賢(ろっかくよしかた)を甲賀へ敗走させながら、石山本願寺の挙兵呼びかけに応じた伊勢長島一向一揆の平定に追われ、家康の求めに応じるどころではなかった。武田勝頼はそれに乗じる形で、天正2年6月17日に遠江国高天神城を攻略。家康の居城である浜松城を再び脅かすようになった。

 

 徳川家にとって何度目かの存亡の危機に違いなく、天正3年3月15日に三河国加茂郡の足助城、設楽郡の野田城が攻略された頃には岡崎町奉行の大岡弥四郎(おおおかやしろう)らによる内通未遂事件も発覚。もう一撃くらえば、徳川は万事休すのところまで追い込まれていた。

 

徳川領と武田領

 

■ようやく援軍が到着設楽原にて武田氏と決戦

 

長篠城

 

 しかし、ここでようやく信長が大軍を動かし、岐阜城から三河まで繰り出してくれた。籠城戦を続ける長篠城を助けようとする織田・徳川連合軍と、それを阻止しようとする武田軍。両者が激突したのは天正3年5月21日のことで、場所は長篠城の西に広がる設楽原(したがはら)だった。

 

 武田軍1万5000人に対し、連合軍は3万8000人。信長は極楽寺山(ごくらくじやま)、家康は高松山(たかまつやま)に陣を構える。山というより丘と呼ぶほうが相応しい高さである。数で勝るだけでは不十分と考えたか、信長は騎馬の突撃を防ぐ柵を作らせ、武田軍が背を見せるまでは迎撃に専念するよう全軍に徹底させた。

 

 一方、家康は前夜のうちに計4000人からなる別動隊を遣わし、鳶ヶ巣山砦など長篠城を囲む5つの砦すべてを攻略。長篠城を解放して、武田軍を挟撃できる態勢を作り上げるが、そのときすでに設楽原では合戦が始まっていた。突撃を繰り返す武田軍に鉄砲で応戦。射撃後の手入れと装弾している間は弓矢で応じ、武田軍が柵の排除を試みている間に鉄砲隊の準備が整い、射撃を再開。

 

 こんな戦いが幾度も繰り返され、昼過ぎに形勢不利と判断した武田軍が敗走を始めると、連合軍は馬防柵を出ていっせいに追撃を開始。長篠城の守兵も打って出て、追撃戦に加わった。

 

 そこで展開されたのはもはや合戦ではなく、一方的な殺戮で、山県昌景(やまがたまさかげ)・馬場信春(ばばのぶはる)・原昌胤(はらまさたね)など名だたる将だけでも20余人、雑兵まで含めれば、連合軍が討ち取った数は1万人ほどに及んだ。

 

山県昌景
武田軍は武田四天王にも数えられる山県をはじめ、信玄の代から支えた重臣を長篠合戦では何人も失った。(国立国会図書館蔵)

 

 家康は余勢を駆って駿河国の奥深くまで侵攻。高天神城を落とすことはできなかったが、甲斐国と高天神城を結ぶ線を除けば、遠江国の大半を支配下に置いた。高天神城は武田氏にとって遠江侵攻の最重要拠点であるから、家康が攻める素振りを見せれば必ず救援に来る。長篠・設楽原の一線で武田氏の没落が確定したわけではないが、全局の主導権が織田・徳川側に移行したことは間違いなかった。

 

[真説]長篠合戦の勝敗を分けたのは銃の数ではなく、弾の数にあり⁉

織田・徳川連合軍は兵の数で武田軍を大きく上まわっていた。鉄砲の所持率はほぼ同じ。この条件だけを見ても、連合軍の有利は明らかだが、それ以上に勝敗を決定づけた要因は物量の差にあった。具体的には弾薬の数である。当時、弾薬の原料となる硝石、火薬、鉛はすべて海外からの輸入に頼っており、この点だけをみても、物流の大動脈を握る信長の優位は動かない。設楽原では武田軍の予備の弾薬が早々に尽きたと推測される。

長篠古戦場
現在の古戦場では発掘調査が進み、武田陣中で見つかった銃弾数が徳川陣中から発見された銃弾数よりもはるかに多いことがわかってきている。

 

監修・文/島崎晋

(『歴史人』2023年2月号「徳川家康の真実」より)

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古代の都と遷都の謎

「古代日本の都と遷都の謎」今号では古代日本の都が何度も遷都した理由について特集。今回は飛鳥時代から平安時代まで。飛鳥板蓋宮・近江大津宮・難波宮・藤原京・平城京・長岡京・平安京そして幻の都・福原京まで、謎多き古代の都の秘密に迫る。遷都の真意と政治的思惑、それによってどんな世がもたらされたのか? 「遷都」という視点から、古代日本史を解き明かしていく。