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なぜ徳川家康は「松平」から「徳川」に改姓する必要があったのだろうか⁉

今月の歴史人 Part.4


家康は青年期に姓を生家の「松平」から「徳川」に改姓している。そこにはどんな思惑と理由があったのだろうか。


 

■家康が松平から徳川に改姓!

徳川発祥の地・世良田東照宮
群馬県太田市世良田町の新田義重の居館跡に建てられている。上の系図から分かるように家康は世良田氏の末裔であり、徳川発祥の地とされている。

 永禄9年(1566)は、家康が三河国平定を成し遂げた年であると共に、勅許(ちょっきょ/天皇の許可)による徳川改姓、三河守任官が行われた年でもあった。ちなみに、徳川という苗字の由来は、清和源氏の流れをくむ新田氏の一族・得川氏から来ている(その分流が世良田<せらた>氏)。松平氏は、自らを新田氏の流れをくむものと考え、家康の祖父・松平清康(まつだいらきよやす)は「世良田次郎三郎清康」と名乗ったこともあったし、家康自身も「源元康」と名乗ったことがあった。家康は本姓を「源」と考えていたのである。

新田義貞
鎌倉幕府を滅ぼした新田義貞は新田義重の次男・義兼の系譜。義重の四男・得川義季の系譜である家康と同じ血脈ということになる。都立中央図書館蔵

 三河平定を成し遂げた家康は、その立場の公認化を達成するため、松平から徳川への改姓と、叙位・任官を朝廷に願い出ることになる。武家であるなら、本当ならば、朝廷への申請は幕府将軍が行うものだった。ところが前年5月に、室町幕府13代将軍・足利義輝(あしかがよしてる)は、三好義継(みよしよしつぐ)や松永久通(まつながひさみち)らにより殺害され、将軍はその時点においていなかった。そこで、家康が頼ったのが、摂関家の近衛前久(このえさきひさ)だった。その仲介をしたのが、京都・誓願寺(せいがんじ)の泰翁慶岳(たいおうけいがく)である。慶岳は三河岡崎の出身とされ、朝廷や幕府とも関係を有していた。松平氏と都(朝廷・幕府)を結ぶ架け橋にもなっている。松平氏から将軍・義輝への馬の献上も、慶岳を通して行われていた(1561年)。元康は将軍に「嵐鹿毛(あらしかげ)」と名付けられた馬を贈り、将軍は元康の素早い対応を「比類なき働き」と称賛している。

 

■鼻紙に書写した系図を提出しようやく改姓が認められた

徳川家系図/図版:戸澤 徹

 さて、徳川改姓等に向けて、実質的に動いていたのは、慶岳の弟子・慶源だった。慶岳は三河に下向していたので、代わりに慶源が都に出向き、近衛前久と折衝したのである。しかし、事は容易に運ばなかった。正親町(おうぎまち)天皇が先例がないとして難色を示されたのだ。そこで、吉田兼右(よしだかねみぎ/公卿、神道家)が万里小路家(までのこうじけ)の古い文書から、先例を探し出して、鼻紙に書写し、近衛前久に提出することになる。その内容は、徳川は源氏であるが、その惣領の筋が二つに分かれ、その一つが藤原氏になったというものだった。それを基にして系図を天皇に提出したところ、徳川改姓と従五位下三河守の叙任が許されたのだ。藤原氏の流れをくむ徳川氏ということにして、叙位・任官を推進したのである。よって、家康は天正14年(1586)頃までは「藤原家康」と名乗ることになる。

 

■従五位下三河守になるために源氏・藤原氏の血脈が必要だった

 

 従五位下三河守、徳川家康となったことは、周辺の大名(駿河の今川氏真や甲斐の武田信玄)と対抗する上でも意義あることであった。三河の大名としての地位を名実ともに確立できたからである。

 

 家康は姓氏について、源氏ではなく、藤原氏を受け入れざるを得なかったが、それは藤原氏の氏長者・近衛前久により官位執奏がなされたためであろう。

 

監修・文/濱田浩一郎

(『歴史人』2023年2月号「徳川家康の真実」より)

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