徳川家康の正室・築山殿(瀬名)自刃事件の真実は⁉─家康の夫婦関係は冷え切っていた⁉─
今月の歴史人 Part.3
大注目を浴びている大河ドラマ「どうする家康」。そのなかでも際立つのは家康と正妻・築山殿の仲睦まじい姿だが、実際、史実のなかでふたりの夫婦関係はいかなるものだったのか⁉
■徳川家康にとっても妻子にとっても地獄の決断 ─信康切腹・築山殿自害の真相─

徳川・織田・武田 相関図
徳川家康と武田信玄の跡を継いだ甲斐の武田勝頼(たけだかつより)が何度かの衝突をはさみ、にらみ合いを続けるなか、天正6年(1578)3月13日、上杉謙信(うえすぎけんしん)が急死する。これより越後(えちご)国で後継者争いが生じたため、対武田同盟は機能停止状態に陥る。
武田勝頼も内政の立て直しに忙しく、外征に力を割く余裕がない。信長と家康も力の回復を図る必要があったので、それまでの合戦続きが嘘のように、信長を三河に迎え、ともに鷹狩りを楽しむなど、しばらくは平穏な日々が続いた。
だが、天正7年の夏、家康は突如、悲劇に見舞われる。武田勝頼への内通疑惑から、正室の築山殿(つきやまどの)と嫡男・信康(のぶやす)を失うのである。
話は家康が居城を浜松城に移した元亀元年(1570)年にさかのぼる。築山殿と信康は岡崎城(おかざきじょう)に留まり、翌年2月、元服した信康は正式に岡崎城主となるが、まだ13歳の彼に統治は無理なので、複数の家老や3人の町奉行が職務を代行した。
当時、家康の実効支配下にあったのは三河一国と遠江(とおとうみ)国の大部分。遠江国からさらに駿河国をも併合するのなら、尾張(おわり)との国境に近い岡崎では西へ偏りすぎで、信長の助言に従い、浜松へ移って正解だったが、嫡男が別の城にいて、二元体制となるのはやはりまずかった。
岡崎から、自分のまったく感知しない命令が出ているのを知った家康は、譜代の家臣が岡崎城下に居住する制度を改め、それぞれの所領に帰還させるが、それでも岡崎の不穏な空気は解消されなかった。
密告により、大事が発覚したのは武田軍が足助城(あすけじょう)を攻略した前後のこと。信康の家老石川春重(いしかわはるしげ)や岡崎奉行の大岡弥四郎、松平新右衛門(まつだいらしんえもん)らが武田勝頼に内通。三河国を武田氏に引き渡すのと引き換えに、信康を当主として徳川家の存続を認めるという内容で、信康の守役を拝命していた鳥居親吉の家臣、山田八蔵(やまだはちぞう)が密告したことにより、家康に知られたのだった。
すでに塩商人から武田軍の不自然な動きについて情報を得ていた家康は、山田の密告により確信を抱き、それからの対応は迅速だった。一味が行動に出るより速く一網打尽に。大岡は7日間におよぶ鋸刑(きょけい)の後、妻子ら5人とともに磔刑に処され、石川と松平は切腹。松平一門の清蔵親宅(ちかいえ)も失脚を余儀なくされるなど、粛清の範囲は参加者全体に及んだ。
この事件に信康と築山殿がどう絡んでいたかは定かでないが、家康は2人の関与はなかったとして、信長には知らせずにいた。
けれども、そんな大事件をいつまでも秘密にしておけるはずがなく、事件から4年後、信康正室の徳姫(とくひめ/おごとく)からの書状で、信長の知るところとなった。
徳姫は信長の長女。9歳前後で家康の嫡男である信康に嫁ぎ、娘2人を産んでいたが、男子を欲する築山殿が複数の側室を用意したことが原因で、夫婦関係も嫁姑関係も険悪化。積もりに積もった憤懣(ふんまん)を父・信長に書き送った中に、先の謀反事件も含まれていたのだ。
信長と家康の関係は時期によって異なるが、この頃には家康が信長に従属する立場にあることは明らかだった。そのため信長の命令であれば嫡男でも処断するしかなく、それとは逆に信長の許諾を得ずに廃嫡することはできなかった。
家康にとっては、よい潮時であったかもしれない。信康を失うのは悲しいが、側室が三男の長丸(のちの秀忠/ひでただ)を産んでくれたから、世継ぎの心配は不要となった。同盟相手を織田から武田に改めよ、との声を完全に潰し、家臣団の意思統一を図るうえでも、いずれ信康を処断しなければならず、信長に先の謀反事件を知られた今こそ、信長の命に抗しきれずとの言い逃れもできるから、処断するに絶好の機会と言えた。

太刀洗の池
築山殿を斬った太刀についた血を洗った池の跡。築山殿の死には諸説あるが、そのひとつは家康の命を受けた野中重政により斬首されたというもの。
信康が二俣城(ふたまたじょう)で自刃させられたのは天正7年9月15日のこと。築山殿もそれより半月ほど前、おそらく浜松への護送中の輿の中で自害した。家康は幽閉にとどめるつもりでいたようだが、頼れる者すべてを失った彼女にそれは地獄でしかなかった。

信康が自刃した二俣城
松平信康は、堀江城に幽閉されたあと、二俣城に移され自刃した。介錯をしたのは代々松平家に仕える服部正成であった。一説には正成は想いがあふれ刀を振り下ろせなかったという。
[新説]徳川家康と築山殿の夫婦関係は冷え切っていた!?
家康と築山殿の関係は、少なくとも家康が浜松城へ移転したときには冷え切っていた。長女の亀姫(かめひめ)が生まれてから10年が経とうというのに、築山殿はそれから1人も子を産んでいない。死産や早産の可能性はあるが、供養した記録が皆無なことからすれば、もはや同衾することもなく、双方とも意思が消え失せていたと見てよいだろう。築山殿が浜松城へは同行せず、息子・信康が城主を務める岡崎城に留まったのは露骨な意思表示である。
監修・文/島崎晋