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徳川家康が生まれる前の松平家と愛知・安城の歩みをひも解く

安城松平家発祥の地!徳川家康ゆかりの「安城」をめぐる【第1回】


司馬遼太郎いわく〝安城〟(あんじょう)という地は「徳川家にあっては、これはただの地名ではなく、名誉と自負心と忠誠心を象徴する神聖語」であるという


 

■「安城」という地がなければ江戸幕府も誕生しなかった!

 

徳川家康
若き日、19歳ごろの家康の勇ましい姿。(刀剣ワールド財団蔵)

 

安城市の地図

 

 松平(まつだいら)氏は、元々は加茂郡の松平郷(豊田市)を本拠としていたが、松平信光(のぶみつ)の時代に岩津城(岡崎市)に居城を移す。さらに信光は、安城城(安城市))や岡崎城(現在の岡崎城とは別城)などを攻略すると、自らの子らを城主とした。こうして俗に「十四松平」とよばれる一族が西三河一円に広がっていったのである。信光が安城城を攻略した時期は不明だが、応仁(おうにん)・文明(ぶんめい)の乱による混乱に
乗じたのであろう。信光は息子の親忠(ちかただ)を安城城の城主とし、その後、親忠の跡は長忠(ながただ)・信忠(のぶただ)・清康(きよやす)と続く。

 

松平氏家系図

 

 清康は同族である岡崎松平氏の支城であった山中城(岡崎市)を攻略すると、その本城・岡崎城をも奪取した。そして、松平一族を含む国衆を次々と降していき、三河をほぼ統一していったのである。さらには、尾張に侵攻し織田信秀(のだのぶひで)と対峙。しかし天文4年(1535)には尾張の守山(もりやま)で家臣の阿部正豊に斬殺されてしまう。このとき清康は、まだ25歳。清康の死により子の広忠(ひろただ)が跡を継いだものの、わずか10歳であり、岡崎城の松平氏の勢いは急落。天文9年には、織田信秀が三河に侵攻してきたため、安城城も織田氏によって奪われてしまった。自力での奪還の不可を悟った広忠は、駿河(するが)の今川義元(いまがわよしも
と)に支援を要請。引き換えに幼少の家康を今川氏へ人質として差し出すこととなったのだった。

 

安城城の古城図
江戸時代に書かれた安城城絵図。当時は池に囲まれ、しっかりとした堀が構築されていた。(広島市立中央図書館/浅野文庫蔵)

 

 天文18年に広忠が没すると、今川義元はすぐさま軍勢を三河に派遣し、安城城を奪還した。こうした安城城をめぐる一連の争奪戦を、安城合戦という。この安城合戦のなかで、のちに「徳川四天王」に数えられ、安城ゆかりの武将・本多忠勝の父・忠高らが討ち死に。安城という地は、松平氏にとっては織田氏の侵攻を食い止める防波堤、織田氏にとっては三河進出の橋頭堡として、どちらも譲れない要衝だったのである。

 

 永禄3年(1560)、桶狭間(おけはざま)の戦いで今川義元が敗死すると、家康は今川氏から独立を果たし、尾張の織田信長(のぶなが)との間に清洲(きよす)同盟を結ぶ。これにより安城城は、対織田氏の前線基地としての意味がなくなり、廃城になった。もともと松平一族の惣領(そうりょう)は岩津城の松平家であり、安城城の松平家は庶流でしかない。しかし、長忠の代に惣領となり、清康の代に躍進。安城松平家は三河有数の勢力へと成長し、その安城松平家を継いだ家康が天下人へと昇りつめたのだ。

 

〝安城〟という地がなければ、江戸幕府も誕生しなかったのではないか。

 

安城城
愛知県安城市安城町赤塚1
現在の安祥城址。徳川家臣団最古参の「三河安祥之七御普代」の発祥の地で、城跡内には大乗寺や東尾八幡社などが建つ。

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過去記事

小和田泰経おわだ やすつね

大河ドラマ『麒麟がくる』では資料提供を担当。主な著書・監修書に『鬼を切る日本の名刀』(エイムック)、『タテ割り日本史〈5〉戦争の日本史』(講談社)、『図解日本の城・城合戦』(西東社)、『天空の城を行く』(平凡社新書)など多数ある。

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