参勤交代の道中で抱えてしまう大名たちの苦労とは?
今月の歴史人 Part.4
「参勤交代には多額のお金がかかる」といわれているが、そのほかにもいろいろな苦労が大名たちには降りかかってきたのだった。意外なことから旅ならではのことなど様々。
■道中で発生した予想外の事態

大井川連台渡之図
大井川は特に難所として知られており、明治時代まで架橋されることがなかった川。高額の人足賃を支払って2本の棒の上にわたした板(=連台)の上に駕籠を乗せるなどして渡川した。(国立国会図書館蔵)
参勤交代はおよそ半年前から綿密な計画を立てて実行されるが、どうしても道中で予期しないトラブルに見舞われる。
その最たるものは天気である。大雨が続くと川が増水するが、水位により人足賃が変わり、最悪の場合は「川止め」となり最寄りの宿場に何日も滞在する羽目になった。
東海道では「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川(おおいがわ)」と唄われたように、橋が架けられていない大井川が大きな難所であった。紀州藩では、箱根と大井川を無事越すと、その夜の本陣では藩士に祝いの酒が振る舞われた、といほどである。鳥取藩でも、大井川を無事通過すると早飛脚で知らせたらしく、江戸藩邸や分家から祝いの書状が届いたという。
加賀藩はほとんど東海道を経由せず、北国街道から中山道ルートを12泊程度で往復するのを常としていたが、寛政10年(1798)には、越中の片貝川(かたかいかわ)、信濃の犀川(さいがわ)、千曲川(ちくまがわ)で川止めにあい18泊もかかってしまっている。
また、鳥取藩の場合、文化7年(1810)には中山道を経由した。この折の渡川費用の総計は45両余であったが、2年後に東海道を経由したときには133両もかかっている。
江戸時代中期以降、東海道より中山道を選ぶ大名が増え、幕府が規制にのりだすことになるが、その背景には、各藩による大河川越えに際して生ずる経済的リスクの回避が大きかったと思われる。
また、大名同士の行列のすれ違いも予期しないトラブルに発展しかねない。そのため、行列の進行に先立って偵察を出し、その情報を基に宿場での休憩などが重なること(「差合(さしあい)」を避けるために、適宜休憩場所の変更や進行速度の調整を行った。
大名行列がすれ違う際は、お互いに道の脇に寄り、笠をとりお辞儀をして下座をするというのが作法であった。このときは左側通行がルールで、これは狭い道などで互いの刀が触れてトラブルになるのを避けたためだといわれる。
さらに偵察により、事前に「御三家」や「日光例幣使(にっこうれいへいし)」など格上の相手とすれ違う可能性がわかると、道を替えて出会うことを避けた。小藩の場合などは、そうした相手に突然出会ってしまった場合などは、列を乱して横道、わき道に「遁走」したという。
■「おもてなし」と「おかえし」による気苦労

喜連川宿
参勤交代が収入源だった喜連川藩。城下町と宿場を兼ねた喜連川宿は、奥州街道でも指折りの繁盛ぶりを見せた。
参勤交代は、ほかの大名の領地を通過せざるを得ない。これにはかなりの神経を使った。
これは通過する大名を迎える側でも同様で、彼らを「お客様」として「馳走」と称される無償サービスを行うのが例であった。たとえば、名産の献上や大名が領内の河川通行の際に船を出すなどのことが行われた。こうした慣例が確立していたので、馳走を忘れた場合などは、すぐに謝罪する必要もあった。また、形式的な馳走もあり、鳥取藩が東海道の佐屋川(さやがわ)を渡るときは、一応尾張と桑名の両藩から船が提供されるが、桑名藩の方は断るのを慣例としていた。
馳走を受けた大名は必ず返礼することが必要であった。そのため路程が長い大名ほど費用負担は申告で、福岡藩は文化6年に、通過予定の38大名と代官所に、あらかじめ馳走辞退を申し入れている。
幕府に対する気遣いも忘れてはならない。鳥取藩は、行程の中間点の伏見に到着したときに、参府(さんぷ)、就封(しゅうほう)とともに将軍、世子への御機嫌伺いを献上物とともに老中に送っている。
このように参勤交代にはさまざまな苦労があったが、江戸を離れない例外的な藩があったことに触れておきたい。
これは「定府(じょうふ)」といわれ、たとえば文化5年の「武鑑(ぶかん)」には27藩が「御定府」と記されている。内訳をみると、ほとんどが御三家の分家や関八州(かんはっしゅう)以外の1万石程度の小大名である。
なお、水戸藩は江戸時代後半になると「定府」状態に近くなったが、それまでは不定期ながら参勤交代をしていた。したがって、参勤交代が皆無に近かった前述の27藩と同一にすることはできず、もちろん「武鑑」にも「定府」との記載はない。
監修・文/永井博