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あらためて知りたい「参勤交代」の目的と仕組みとはいかなるものだったのか⁉

今月の歴史人 Part.2


「参勤交代」。教科書でも習い、映画や時代劇でもよく描かれるこの行事は江戸時代のアイコンとも呼べる仕組みである。その実態はいかなるものだったのか。その目的と仕組みをここでは紹介する。


 

■きっかけは豊臣秀吉!大名統制策の発展と制度化

 

『舊諸侯参勤御入府之圖』
長州藩の13代藩主・毛利敬親の「参勤交代」行列を描いた錦絵。総勢1,000人といわれる行列が江戸を通る様子である。(東京都立中央図書館蔵)

 

 参勤交代には、本来2つの意味があった。すなわち1つは「権力者への拝礼のために伺候(しこう)する」というもの、もう1つは「権力者に軍役によって奉仕する」という意味である。

 

 古くは鎌倉時代にまで起源を求めることができるが、江戸幕府の制度の直接的な起源は、豊臣秀吉が全国の大名たちに、大坂城や聚楽第(じゅらくだい)周辺に邸宅を与え、領国との間を往復させるようにしたことであろう。

 

 秀吉は、求めに応じても参勤してこない大名に対して、武力討伐をちらつかせ、臣従の証しとしようとした。これが江戸幕府に引き継がれ、制度として確立していくのである。

 

 家康は「諸国の大名、大樹(将軍)の命にそむき、参覲に怠るものあらんには(中略)すみやかに兵を発し誅ちゅう戮りくすべきなり」(『徳川実紀』)と、秀吉にならって参勤を強く求めたが、言われるまでもなく諸大名は江戸へ向かった。

 

 軍役でもあるため、彼らは忠誠を競うように多人数を引き連れてきた。そのため、慶長20年(1615)の武家諸法度では、連れてくる人数の基準を定めている。

 

 一方で参勤を怠る大名に対しては厳しく処断した。それは将軍の親族とて例外ではなく、家康の孫・松平忠直は隠居させられている。

 

 3代将軍・徳川家光(とくがわいえみつ)は、大名妻子をいわば「人質」として江戸に置くことを進め、参勤交代のルールを定めた。すなわち寛永12年(1635)の武家諸法度に「大名、小名在江戸交替相定ル所也」として参勤交代の時期を明示し、かつ人員の減少を定めた。

 

 以上は外様大名に対する制度である。幕府の職員である譜代大名は常に将軍の側に仕えていなければならなかった。しかし、寛永19年に大飢饉が起きると、家光は対応のため、担当職務を交替しながら領地に行って政務を見ることを求めた。これを契機に参勤交代制度が全大名に拡大されたのである。

 

 8代将軍・徳川吉宗(よしむね)は、幕府の財政を立て直すため「上米(あげまい)の制」を実施した。これは石高1万石につき米100石を幕府に上納させるもので、その代わりに、大名の江戸在府の期間を半分に短縮するというものであった。この制度は8年後に廃止されるが、各藩の江戸暮らしの経済的負担を軽減すると同時に、幕府にとっても長期にわたり大名を在府させる必要がなくなったことを示している。

 

 しかし、行列の人数は、幕府が再三制限をしたにもかかわらず江戸時代中ごろまではあまり減らず、毎年数万人が全国と江戸を往復していた。これが文化的、経済的に大きな効果をもたらしたのである。

 

監修・文/永井博

(『歴史人』2023年1月号「江戸500藩変遷事典」より)

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