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「お取りつぶし」も含めると消滅した江戸時代の藩は500近い⁉─藩の基礎知識と大名統制幕藩体制─

今月の歴史人 Part.1


江戸幕府から領地の支配を認められたのが「大名」、大名を頂点とした組織、または領域が「藩」。一般的にはこのように認識されているかもしれない。だが、実はそんな単純ではない。「藩」を存続させるのは非常に困難であり、消滅してしまう藩も多数あったという。


 

■幕府が判物や朱印状を発給し「藩」は領有が認められる

 

家光までの武断政治の時代は、外様を改易して取り上げた領地を、譜代に抜擢した大名に与えるケースが多かった。件数は減ったものの、綱吉の頃まで続いた。

 

 大名の所領・支配組織を指す「藩」という名称は、明治維新以降に普及した。江戸時代では、大名の所領はその姓名を冠して「○○家領」「○○領分」、支配組織も「○○家中」などと呼ばれるのが通例だった。

 

 藩は単独で成り立つものではなく、幕府から所領の支配(領有)を認定されることで、領主が大名つまり藩主として君臨できるシステムになっていた。将軍の代替りごとに、その花押が据えられた領知判物(はんもつ)、あるいは朱印が据えられた領知朱印状(しゅいんじょう)が諸大名に発給されることで、領有が認定される仕組みである。

 

 こうして、幕府と藩が共同して日本を統治する幕藩体制が誕生したが、その画期は領有権を担保する領知判物・朱印状が1万石以上の所領を持つ領主に一斉に発給された寛文4年(1664)に求められる。これを寛文印知(かんぶんいんち)といい、1万石以上の所領を持つ領主が大名つまり藩であると名実ともに認定され、藩による統治システムも確立されることになる。

 

 江戸開府前、家康からみると大名の大半は外様大名であった。家康は関東に転封された際に250万石の大封を与えられたため、1万石以上の所領を持つ一門や家臣の数が42名にも及んだ。この時点で、親藩・譜代大名が40名余いたが、その数が飛躍的に増えたのは関ヶ原合戦に勝利し
た後である。

 

 徳川家康は西軍に参加した外様大名から没収した所領を元手に、東軍に参加した大名への論功行賞を行った。半分以上の425万石が東軍参加の外様大名への加増に当てられ、3割弱の220万石をもって一門や家臣への加増分に当てた。80名以上の外様大名が改易された一方で、一門や家臣で親藩あるいは譜代大名に取り立てられた者も多かったが、譜代大名の数の方が圧倒的に多い。

 

 3代将軍・徳川家光の代までは、幕府が大名を改易する事例は多かった。主に外様大名が対象だが、1万石未満の家臣を大名つまり譜代大名に取り立てる事例も少なくなかった。外様大名は減る一方だったが、譜代大名の数は増加傾向が続き、外様大名の数をはるかに上回っていく。

 

 かたや大名側には、1万石以上の所領を割いて分家の大名を創設する動きがみられた。跡継ぎなしとの理由で改易(かいえき)処分が下るのを防ぐための自衛策だった。

 

 その結果、大名の数は公称300、幕末には実数260名程に達するが、改易された家を含めると実質500近くがあったと考えていい。

 

赤穂藩の取りつぶし
赤穂藩は改易された藩の代表例である。浅野内匠頭(長矩)が江戸城松之廊下で高家・吉良上野介に対し刃傷事件を起こし切腹。お家は断絶した。(『忠雄義臣録第三』東京都立中央図書館蔵)

 

監修・文/安藤優一郎

(『歴史人』2023年1月号「江戸500藩変遷事典」より)

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