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「大奥」はどこにあったのか?

女の園・大奥の謎【第2回】


大勢の女性たちが生活していた大奥は、いったい現在のどこにあったのだろうか? また、それほどの巨大な空間が存在していたのかだろうか?


 

本丸、西の丸、二の丸に御殿があり、いずれも御殿に隣接して大奥という文字が書かれている。中国の「天子は南面す」という身分の高い人は南を向いて座る思想から、表御殿という人と対面する空間は南に、プライベート空間である大奥はその北側に造られていた。(江戸城図/国立国会図書館蔵)

 

 何千人もの女性たちが日々の生活を送っていた大奥は、いったいどこにあったのだろうか。江戸城に、そんなに多くの人が収容できる場所があったのかと思われる方もいるかもしれないが、江戸城は現在の皇居プラス日本武道館などがある北の丸公園の広さがあった。現在皇居の一部である皇居東御苑は、一般に開放されているので、行ったことがあるという人も多いかもしれない。

 

 一般に公開されている皇居東御苑には、現在ほとんど建物が残ってはいないが、かつては様々な建物が所狭しとひしめきあっていたのである。戦国時代の山の上に築かれた山城から、江戸時代の低い山を利用した平山城や平坦な土地の平城への変化したのは、広い土地に多くの建物を並べる必要があったからだ。

 

 山城は戦いのための城であった。しかし、大坂の陣以降、戦いらしい戦いはなく、城は政治の場となった。城主が家臣たちと対面することが、最も大切な政治的行為である。そのため城主だけでなく身分の高い武士の居館には、御殿と呼ばれる建物が建てられており、対面は表御殿で行われる。また、表御殿には家臣たちが必要に応じて執務を行う場所も設けられていた。わざわざ表御殿と書いたのは、政治が行われる表御殿のほかに、プライベート空間である奥御殿もあったからだ。

 

 そう、大奥とは、江戸城の奥御殿にあった空間のこと。他の城に比べて大きいから大奥なのではなく、江戸城には中奥と呼ばれる空間もあったためにこれと区別するために大奥となった。中奥は将軍が普段生活する空間で、大奥には、将軍の妻や子たちが住んでいる場所だった。大奥にいた多くの女性たちは、将軍の夜の相手を務めるために集められたのではなく、将軍の妻や子どもたちの世話をするためにそこで暮らしていたのである。

 

 江戸城の本丸御殿は現在、皇居東御苑として公開されている天守台南側の芝生が植えられている広場のあたりにあった。そのうち、本丸御殿の大奥はもっとも天守台に近い宮内庁雅楽部桃華楽堂が建っていたあたりになる。

 

 なぜわざわざ、本丸御殿と書いたかというと、実は御殿は一つではなかったからだ。本丸御殿は、将軍のためのもの。次の将軍になることが決まった嗣子や、2代将軍・徳川秀忠(とくがわひでただ)や8代将軍・徳川吉宗(とくがわよしむね)のように生前息子に将軍の座を譲り、引退して大御所となった元将軍たちは本丸御殿ではなく、西の丸御殿で生活する。彼らにも妻や子どもがいるので、当然大奥も存在していた。また、将軍が亡くなった後の妻が西の丸で余生を送る場合もあった。

 

 本丸や西の丸に加えて、二の丸にも御殿があった時期もある。これは、嗣子と大御所が同時に存在していた時期こともあるからだ。つまり、江戸城には最大3つの大奥が同時に存在していたのである。

 

 最近の研究では、大藩でも家族が住んでいる奥向きのことを大奥と呼んでいたという記録が見つかったというが、一般には大奥といえば、江戸城本丸の大奥のことを指していると考えて差支えないだろう。

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加唐 亜紀

1966年、東京都出身。編集プロダクションなどを経てフリーの編集者兼ライター。日本銃砲史学会会員。著書に『ビジュアルワイド図解 古事記・日本書紀』西東社、『ビジュアルワイド図解 日本の合戦』西東社、『新幹線から見える日本の名城』ウェッジなどがある。

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