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誰が「大奥」を作ったのか?

女の園・大奥の謎【第1回】


男子禁制の女の園・大奥。江戸城の奥深くに位置していたこの美女の園は、誰により、どのような目的でつくられたのだろうか? 


明治になって描かれた大奥の様子。連作で、多くの女性たちが、お茶やお花などをたしなみ、季節の行事を楽しむ様子が描かれている。(『千代田の大奥』/東京国立博物館蔵、出典:ColBase)

 江戸城の奥深くにある何千人もの女性たちが住まう空間。それが大奥である。では大奥はいった誰がつくったのだろうか。

 

 春日局(かすがのつぼね)がつくったと思っている人もいるかもしれない。しかし、彼女は3代将軍・徳川家光(とくがわいえみつ)の乳母で、大奥をつくるような権限も権力も持ち合わせてはいなかった。ただし、春日局が、草創期の大奥に大いに貢献していることは否定できない事実である。

 

 それでは、春日局が育てた徳川家光が大奥をつくったのだろうか。いや、それも違う。実は、徳川家康(いえやす)の時代に大奥らしいものがあったことはわかっているのだが、それがいつ、大奥へとの変化したのか今のところわかっていないのだ。

 

 大奥らしいものがあったと書いたのは、徳川幕府初代将軍・徳川家康には、築山殿(つきやまどの)という正室・築山殿亡き後には、旭姫(あさひひめ)という継室のほかに、数多くの側室たちがおり、徳川家康が将軍職を息子の秀忠(ひでただ)に将軍職を譲った後、移り住んだ駿府城にこうした女性たちも一緒に暮らしていたからだ。

 

 慶長12年(16071223日、駿府城が全焼。徳川家康が江戸城から移ってからわずか5カ月後のことであった。この時家康の家族は全員無事だったという。しかし、この後、事件が起こった徳川家康の9男・徳川義直(よしなお/後の御三家のひとつ・尾張藩初代藩主)付の者が召し放しになったのである。なぜ、召し放ち、つまり解雇になったのかといえば、火事の時に裏口から入り、義直の母亀姫(かめひめ)を介抱して、女中たちとともに、城から脱出させたからである。

 

 普通ならば「よくやった」とお褒めの言葉とともに、何かしらの褒美をもらえる行為だ。実際に、亀姫の息子である義直は、この者に褒美を取らせている。しかし、父親の家康は、「法度に背いた」として、この者を処分したのである。亀姫が住んでいたところは、主である徳川家康の許可なくして、男性が立ち入ることができない場所、大奥だったのである。家康は、火事という緊急事態であっても法度を遵守すべしとしたのである。つまり徳川家康の時代には、すでに大奥の原型が発芽していたのだ。

 

 江戸城の大奥の原型というべき駿府城の大奥は、元和2年4月17日に徳川家康が亡くなり、家康の側室たちが、駿府城から江戸に移ったため、自然消滅した。

 

 江戸に移って来た側室たちのうち阿茶(あちゃ)と、勝は、北の丸に広大な屋敷をもらい、ここから江戸城に毎日登城して、大奥を取り仕切っていたという。阿茶は、大坂の陣で大坂城に乗り込んで豊臣側との和平交渉にあったこととして有名で、彼女は家康の側室というよりも政治上のパートナーだったようだ。

 

 彼女たちが、江戸に行った後の元和4年(161812日に奥方法度が定められる。これは、大奥への出入りを管理する広敷向に勤務する役人たちの規則だ。元和元年(1615)に「武家諸法度」と「禁中並公家諸法度」が出され、武士だけでなく、天皇や公家などの行動等が定められた。その一環として出されたのであろうが、出されたタイミングからしてもしかしたら、阿茶が何かしら関与していたのかもしれない。大奥成立には、徳川家康の遺志が、大きくかかわっていたのではないだろうか。

 

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加唐 亜紀

1966年、東京都出身。編集プロダクションなどを経てフリーの編集者兼ライター。日本銃砲史学会会員。著書に『ビジュアルワイド図解 古事記・日本書紀』西東社、『ビジュアルワイド図解 日本の合戦』西東社、『新幹線から見える日本の名城』ウェッジなどがある。

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