将軍は毎晩ハーレムというわけではなかった⁉ ─〝大奥の床〞で守られた2つの決まり事─
今月の歴史人 Part.3
江戸時代の徳川将軍と言えば絶大な権力を誇る。大奥という女の園を有した将軍は、毎晩ハーレム状態だったのでは、と想像してしまうものだが、大奥を前にすればその将軍といえども守らなければならない決まり事や臨機応変なルールが存在した。本稿では明文化されていないルールのうち、代表的な2つの「きまりごと」を解説する。(『歴史人』10月号「徳川将軍15代×大奥」より)
■将軍との“床の中”での側室の「おねだり」は禁止

甲府城跡綱吉が妾・染子におねだりされて柳沢吉保が加増されたという噂が残る甲府の城跡。
側室が寝床で将軍に私的な願い事をするのを防止するため、御伽坊主と御中臈が添い寝をする制度があったのは先述した。
11代将軍・徳川家斉の側仕えをしていた中野清茂(磧翁)の屋敷に、日蓮宗の僧侶・日啓の娘お美代が奉公していた。清茂は家斉の好色の機微を知っているため、お美代を養女とし、大奥に送り込んだ。はたして、清茂の狙い通り、家斉はお美代に目を付けた。お美代は家斉の寵愛を受けて、3子を産み、側室・お美代の方となった。その後、養父・清茂は加増を受けて、破格の昇進を遂げた。また実父の日啓も、江戸の雑司ヶ谷に感応寺の建立を許された。このように、清茂と日啓が目覚ましい出世をした背景には、やはりお美代の方の口利きがあったと考えるのが自然であろう。

感応寺江戸時代の書物に描かれた感応寺。 お美代の父が将軍から許可を得て 創建した。現在は残っていない。国立国会図書館蔵
また有名な逸話として5代将軍・徳川綱吉の話も残る。諸説あるが、性欲旺盛で知られた綱吉は、柳沢吉保の側室・染子を妾としていた。染子は床の中で綱吉に自分の主人である柳沢吉保の甲府での所領の加増をおねだりしたという。
どんなきびしい制度にも抜け道はあるということであろう。また、どんな男であっても、色香を用いた篭絡には陥落するということであろう。
■三十路をすぎたら床入り引退「御褥御免」

遊女たちも30歳を過ぎたら引退した上の絵は吉原の華やかな様子を描いたものだが、 遊女たちも30歳を超えると引退を促された。 国立国会図書館蔵
正室も側室も、30歳になると「御褥御免(おしとねごめん)」を申し出て、将軍との性交渉を辞退する習わしがあった。当時の30歳は、現在の満年齢では28歳か29歳である。
正室と側室は、将軍の死後も実家に戻ることは許されていなかった。つまり、再婚はできなかった。御褥御免の以降、正室も側室も大奥に閉じ込められ、異性との性交渉のないまま一生を終えたことになろう。
30歳で御褥御免となった背景には、当時、出産は母子ともに危険をともなったので、高齢出産を避けるためという見方もある。しかし、20代の後半で性を断念しなければならないなど、現代の感覚では、あまりに非人間的といえよう。なかには、逸脱した側室もいた。
徳川御三家のひとつ、徳川尾張藩の3代藩主・徳川綱誠の側室だったお福の方は、4代尾張藩主・吉通を生んだ。綱誠の死後は尼となったが、綱誠の跡を継いだ藩主・吉通の生母であるのをいいことに、やりたい放題の淫行を始めた。若い藩士のほか、役者や相撲取り、僧侶など手あたり次第だった。あまりに目に余るというので、ついにお福の方は幽閉された。大奥に関しては、お福の方のような逸脱の例はないが、これは記録がないだけかもしれない。淫行はあっても、隠蔽された可能性もある。
監修・文/永井義男