江戸時代に庶民の間でブームとなった「売春ツアー」とは⁉
全国津々浦々 遊郭巡り─東西南北で男たちを魅了した女たち─第7回(伊勢・古市/ふるいち 遊郭 前編)
旅行といえば今も昔もハメを外して楽しむこともあるだろう。江戸時代、「伊勢参り」をはじめとする寺社への参拝旅行は、定番の旅行だった。後期にはブームが起こり、多くの人々が旅行を楽しむようになった。そのなかには「女遊び」を目的にすり替えて、楽しむ男の団体客もいたというから驚きだ。そんな客たちで盛り上がった伊勢の古市という遊楽街を今回は紹介。
旅行が目的なのか⁉ 女遊びが目的なのか⁉ 江戸の“男”の団体ツアー

図1『伊勢参宮名所図会』(蔀関月編、寛政9年) 国会図書館蔵
江戸時代も後期になると、庶民のあいだに旅行ブームがおきた。
ただし、神社仏閣の参詣や霊峰登山を目的として、講を作って団体旅行をするもので、いわばツアーだった。また、講の構成員は男が主体だった。
江戸の庶民のあいだでは、成田山新勝寺(千葉県成田市)に参詣する成田講、富士山に登る富士講、大山(神奈川県中部の山)に登る大山講などの人気が高かった。
とくに、伊勢神宮(三重県伊勢市)に参詣する「お伊勢参り」は、江戸のみならず、全国的に人々の念願だった。お伊勢参りをする団体旅行は、伊勢講と呼ばれた。
講は信仰を目的に掲げていたわけだが、男の団体旅行ということもあって、実際には途中の宿場で、飯盛女(めしもりおんな)と呼ばれる遊女と遊ぶのも楽しみだった。中には、女郎買いが目的で講に参加する者も少なくなかった。
講による団体旅行は、「売春ツアー」の一面があったと言っても過言ではない。
その最たるものが「精進落し」であろう。
寺社に参詣したあと、あるいは霊峰から下山したあと、男たちは精進落しと称して、呑めや歌えのどんちゃん騒ぎをし、女郎買いをしたのだ。
そうした精進落しの需要に応じるため、有名な神社仏閣の門前には、たいてい多くの女郎屋が集まり、遊里(ゆうり)が形成されていた。
これは、伊勢神宮も例外ではなかった。
伊勢神宮の外宮(げくう)と内宮(ないくう)を結ぶ街道の途中に、間の山と呼ばれる丘陵があり、ここに古市(ふるいち)遊廓があった。
寛文年間(1661~73)に妓楼(ぎろう)が増え、遊廓を形成した。
天明期(1781~89)には、妓楼は七十軒を数え、遊女は千人を超えた。
いかに古市がにぎわっていたかがわかろう。
図1は、古市の妓楼の光景。参拝を終えた伊勢講の男たちが、精進落しをしているところである。
遊女が伊勢音頭を披露し、まさにどんちゃん騒ぎといえよう。このあと、男たちはそれぞれ遊女と床入りした。
戯作『伊勢名物通神風』(式亭三馬著、文化15年)は、備前屋という妓楼について――
ここに伊勢古市は、青楼あまたある中にも、備前屋小三郎が桜の間は皆様、御存知の大座敷なり。
――とある。備前屋の大座敷「桜の間」は有名だったようだ。
なお、「青楼」は妓楼のことだが、「ちゃや」と振り仮名がついている。古市では、妓楼を「ちゃや」と呼んでいた。
同書はさらに桜の間について――
世に名高き桜の間の大踊りというは、九間に六間の大座敷をぐるりとおやまにて取り巻き、伊勢音頭に合わせてあまたの美女、三方廊下をまわりながら、手拍子そろえて踊るなり。その姿、たおやかに、風流、言わんかたなし。
――とあり、九間に六間は、16メートル×11メートルの座敷である。
この大きな座敷で、大勢のおやまが踊る。まさに図1のような光景だった。
なお、「おやま」は遊女のこと。上方では、遊女を総称して「おやま」と呼んだ。
古市の妓楼は、上記の備前屋のほかに、油屋も有名だった。
寛政八年(1796)年五月、油屋で、酒に酔った客が逆上し、刀を振りまわして女中ら五人を殺傷したあげく、自害する事件がおきた。
この事件をいちはやく歌舞伎に脚色したのが、『伊勢音頭恋寝刃(いせおんどこいのねたば)』(近松徳叟作、寛政8年初演)である。
歌舞伎『伊勢音頭恋寝刃』で、古市・油屋の遊女「お紺」は全国的に有名になった。もちろん、お紺は作者の創作なのだが、人々は実在の遊女と信じたであろう。
当時の男たちの切なる願いは、
「お伊勢参りに行ったら、古市の油屋にあがりたい」
というわけである。
図2は、歌舞伎役者が演じる、油屋のお紺。浮世絵になるほど有名だった。

図2『伊勢音頭恋寝刃』(歌川国貞、嘉永5年) 東京都立中央図書館特別文庫室所蔵
(続く)
[『歴史人』電子版]
歴史人 大人の歴史学び直しシリーズvol.4
永井義男著 「江戸の遊郭」
現代でも地名として残る吉原を中心に、江戸時代の性風俗を紹介。町のラブホテルとして機能した「出合茶屋」や、非合法の風俗として人気を集めた「岡場所」などを現代に換算した料金相場とともに解説する。