どうにか乗りたい玉の輿~江戸のシンデレラストーリーとは?~
桂紗綾の歴史・寄席あつめ 第7回
『歴史人』ファンの皆様、私、大阪の朝日放送アナウンサー・桂紗綾と申します。このコラムでは、落語を中心に“伝統芸能と歴史”について綴って参ります。どうぞよろしくお願い致します(第1回コラムはこちら)。普段、アナウンサーとして働いている私ですが、もう一つの肩書が社会人落語家です。30歳を過ぎた頃からのめり込み、気付けば自分でも高座に上がるようになりました。落語は戦国時代から続く(諸説あり)話芸であり、民衆にも親しまれ、時代を反映した大衆芸能です。その他の伝統芸能(講談や浪曲・文楽・歌舞伎等)にも影響を受け、もちろん歴史とは切っても切れない関係なのです。
『シンデレラ』は誰もが知っている童話ですよね。継母や義姉達にいじめられ〝灰かぶり〟と呼ばれている美しい娘が、魔法使いの助けで行った舞踏会で王子様に見初められ結婚するという物語。このことから恋愛上での出世話は〝シンデレラストーリー〟と呼ばれます。要するに〝玉の輿〟ですね。例えば有名な映画では『プリティウーマン』や『麗しのサブリナ』、現実世界では民間から王室入りした英国のキャサリン妃等が挙げられます。

大奥の婚礼式日本のお姫様といえば、将軍のお嫁さん。大奥では華やかな生活を満喫していたに違いない。(『千代田の大奥』国立国会図書館蔵)
実は日本史上にも映画のような話があります。雑誌『歴史人』10月号の特集は「徳川将軍15代と大奥」。大奥は男子禁制で、将軍の正室・側室等、将軍の家族が住んでいた場所です。市民は立ち入ることが出来ない、ベールに包まれた憧れの空間。ここに一般家庭から入り、将軍のお子を産んだ人がいます。当時の女性にとって、これ以上ない大出世でした。
その話をわかりやすくおもしろく伝えているのが浪曲『将軍の母』。主人公は京都清水寺門前の八百屋太郎兵衛の娘・お伝(歴史上はお玉ですが、浪曲ではお伝と言われています)。『シンデレラ』や『プリティウーマン』との大きな違いは、お伝のビジュアルがとんでもなく不器量だったこと。

お玉の成り上がり物語を描いた『八百屋の娘』八百屋の娘が将軍の子供を産むというサクセスストーリーで、江戸時代から文学や歌舞伎、文楽など芸能において人気を集めた。(国立国会図書館蔵)
6歳で関白鷹司家の姫・孝子に仕え、姫が三代将軍徳川家光の正室に迎えられたことで、お伝も里付きの女中として大奥へ入ることになりました。千人を超える女中同士、悲しいかな、あまりにも不器量なお伝はそのことを理由に美人女中達からいじめられます。
あぁ、可哀そうなお伝、器量は悪いが優しくて気遣いの出来る良い家来なのに、私がこんなところへ連れて来たばっかりに…と、心を痛めた主人の孝子姫、お伝を他の女中と接することのない風呂番に配置換えさせました。これがお伝にとって運命の分岐点。
ある晩、大奥で催されていた月見の宴に遊びにきていた将軍家光がひとっ風呂浴びたいと言い出します。もちろんお世話をしたのはお伝。家光、まさかの御手付き。お伝、まさかのご懐妊。周囲も家光様がまさかあのお伝と!?と驚愕する始末。このままではいかんと、京都から父・八百屋太郎兵衛を呼び寄せ、まさかの官職にお取立て。「人生には三つの〝さか〟がありまして、上り坂、下り坂、まさか…」なんてスピーチが聞こえてきそうな程のまさか具合です。
とんとん拍子で出世するお伝。産んだ息子は5代将軍徳川綱吉、自らは側室・桂昌院様と崇め奉られ、末は女性最高位の従一位の官位にまで登り詰めました。

桂昌院像将軍の子を産んだ桂昌院は周囲から崇められるとともに、実家もその恩恵に預かり、一族たちは諸藩をあてがわれ、大名という地位を多くの者が手にした。自身も歴史に名を残すほどの影響力をもち、遺髪塚がある京都・善峯寺には銅像が立てられるほどの栄誉を得た。
このように浪曲で語り継がれる程、桂昌院のシンデレラストーリーはかつて世の中の大きな関心事でした。しかも〝玉の輿に乗る〟という諺は、身分の低い八百屋の娘お玉(念のため再度。浪曲ではお伝、本来はお玉)が、豪華絢爛なお輿に乗り将軍家光に嫁いだことから生まれたという説もあります。何故〝玉の輿〟が世間の関心事だったか…自立した考えの女性が多い現代とは価値観は全く異なります。それは、嫁いだ本人だけでなく、家族も皆末永く安泰に暮らせたことが大変重要なのです。
落語にも同類の噺があります。『妾馬』(またの名を『八五郎出世』)という有名なお噺。こちらもまたいずれ詳細にご紹介しますが、『妾馬』に出てくる台詞を結びの言葉と致しましょう。「正に玉の輿に乗るのが出世の糸口というわけや、なぁ、八五郎?」貧しさ故に生き抜くことすら困難だった時代、町人の身分で一家を繁栄させた娘は、何より偉大で尊い存在だったのです。