戦争と演芸界③ ~上方落語復活への道のり~
桂紗綾の歴史・寄席あつめ 第3回
『歴史人』ファンの皆様、私、大阪の朝日放送アナウンサー・桂紗綾と申します。このコラムでは、落語を中心に“伝統芸能と歴史”について綴って参ります。どうぞよろしくお願い致します(第1回コラムはこちら)。普段、アナウンサーとして働いている私ですが、もう一つの肩書が社会人落語家です。30歳を過ぎた頃からのめり込み、気付けば自分でも高座に上がるようになりました。落語は戦国時代から続く(諸説あり)話芸であり、民衆にも親しまれ、時代を反映した大衆芸能です。その他の伝統芸能(講談や浪曲・文楽・歌舞伎等)にも影響を受け、もちろん歴史とは切っても切れない関係なのです。
上方落語絶滅の危機を救った“四天王”
戦況の厳しい1944年2月25日、決戦非常措置要綱が閣議決定されました。学徒動員や女子挺身(ていしん)隊の強化、疎開推進、空襲対策の他、高級享楽の停止が言い渡され、待合、カフェー、遊郭、劇場等が休業措置となりました。米軍による本土空襲も激化し、もはや国民には演芸を楽しむ余裕などありませんでした。1945年3月10日東京大空襲、13日大阪大空襲、17日神戸大空襲など、主要都市が続けざまに大規模な無差別爆撃で焼き尽くされ、東京の寄席は人形町末広亭を残して全滅。大阪・神戸の演芸場もほぼ壊滅状態となりました。

大阪空襲で焦土と化した大阪の様子。撮影日不明。写真:近現代PL/アフロ
戦後、焦土と化した大阪の街で本格的な寄席小屋が復活したのは、1947年9月。道頓堀に戎橋(えびすばし)松竹が開業。その頃の上方落語家は戦死や廃業で10人もおらず、まさに風前の灯火。そもそも上方の演芸界はエンタツ・アチャコというしゃべくり漫才の帝王の出現により、1930年代から漫才中心へと移行し、寄席でも漫才がトリを取るようになっていました。「大阪の漫才・江戸の落語」と評される上方落語低迷期、更なる悲劇に見舞われます。大看板達の相次ぐ他界。1950年五代目笑福亭松鶴(しょうふくていしょかく)逝去、その後二代目立花家花橘(たちばなやかきつ)、四代目桂米団治(かつらよねだんじ)、二代目林家染丸(はやしやそめまる)が永眠。1953年爆笑王・二代目桂春団治(かつらはるだんじ)までもが帰らぬ人となりました。新聞で「上方落語は滅んだ」と報じられたのも当然で、巨星が墜ちたことにより残されたのは一線を退いた古老と入門したての若手のみ。確かに上方落語は絶滅寸前だったのです。
しかし、ここで希望の光となるのが、後に“上方落語四天王”と呼ばれる4人の若者の存在です。豪放磊落(ごうほうらいらく)な芸が魅力の六代目笑福亭松鶴、人間国宝の三代目桂米朝(かつらべいちょう)、艶やかで品のある三代目桂春団治、上方らしいはんなりした風味の五代目桂文枝(かつらぶんし)。いずれも戦後の混乱期1946~47年に入門しました。
唯一の寄席小屋である戎橋松竹が閉館した同年、1957年に上方落語協会が発足しましたが、そのタイミングでの協会員はわずか18人。その後、ようやく協会員が約50人となった1972年2月21日、大阪はミナミの島之内教会で、上方落語協会による初の主催定席・島之内寄席が開席されました。観客・報道陣で立錘の余地もない大入り満員。会長の松鶴師、副会長の米朝師が紋付袴姿で口上に並び、「たとえ五日にしろ(第一回島之内寄席は定席とは言え、五日間のみの開催でした)、噺の定席が出来ましてこんな嬉しいことは御座いません。何卒益々この定席をば、盛り立てていただきますのは我々だけの力ではやっていけませんのです。皆さん方の双肩にかかっているようなわけで。日本の国を良くするか、上方落語界を発展さすか、どうぞ皆さん方、尚一層ご支援下さいますよう、隅から隅までズィーッとお願い奉りまする~」松鶴師のこの挨拶に会場は歓喜し、感涙したと言います。

一年中開催の寄席小屋・天満天神繁昌亭。写真:近現代PL/アフロ
2006年9月には念願だった365日開催の寄席小屋・天満天神繁昌亭(はんじょうてい)が誕生しました。民間・落語ファンの寄付によって建設された奇跡の小屋です。次いで2018年7月には神戸新開地・喜楽館も開館。2021年7月現在では上方落語協会に所属している噺家も251人と賑やかな様子です。
戦後荒れ果てた泥だらけの道を美しく舗装し、上方落語を完全に復興させたのは、四天王と、彼らに追随し発展に尽力した弟子達、そして上方落語ファンの功績なのです。