日本軍の「南方作戦」快進撃の裏にあった3つの危機 ─失墜の明らかな予兆とは─
今月の歴史人 Part.2
太平洋戦争での日本軍は劣勢であったイメージばかりが先行するが、開戦から半年間は連合軍を相手に怒涛の快進撃であった。そのもっともたるものが「南方作戦」である。だが、その裏にはすでに失墜の予兆も見え隠れしていたという。ここではその潜在的な危機について迫っていく。(『歴史人』2021年8月号 「日米開戦80年目の真実」『世界を震撼させた「南方作戦」』より)
陸海軍の対立や戦略の欠如から生じた潜在的危機
~その後の失墜には明らかな予兆があった!~

松代大本営の地下坑道跡太平洋戦争の末期に、日本の政府機能移転のために長野県埴科郡(現長野市松代地区)などの山中に掘られた、松代大本営の地下坑道跡。ポツダム宣言の受諾によって、途中で工事は中止された。
大本営とは、日本陸海軍の最高統帥(とうすい)機関を指す。当初は戦時にのみ設とされていたが支那(しな)事変の発生により戦時以外の事変においても設置は可能とされ、以後、昭和20年(1945)の戦争終結まで継続して設置された。この大本営政府連絡会議で決定されるのが戦争指導大綱で「今後採ルヘキ戦争指導ノ大綱」として昭和17年から20年まで4回、上奏された。この会議において顕著なのは陸海軍のすれ違いで、例えば、 陸軍が長期持久態勢の確立を主張するのに対し、海軍は短期決戦を主張する。こうした対立が常にあり、すべてにおいて陸海軍は衝突した。それだけではなく陸海軍ともに参謀本部と陸軍省は対抗し、軍令部と海軍省も対抗した。大本営会議に文官は参加できないためだが、これを打開すべく政府と統帥部の合同による最高戦争指導会議が開かれたが、終戦を迎えるその日まで揉めた。部内でも作戦参謀と情報参謀は対立し、大本営と現地軍の意思は疎通せず、指揮は乱れた。すべては軍部首脳が統帥権を盾にしたことによるのだが、 こうした対立が戦争を遂行する上で重大な障碍(しょうがい)になったことは間違いない。
戦争を遂行する上で物資不足も日本を苦しめた。輸入頼みの日本にとって、物資輸送は生命線であったが南方作戦の完遂以降、日本海軍は活動を削減してしまう。替わって米軍による通商破壊が活発になった。商船から病院船に至るまでことごとく標的とした。兵站線の破壊はガダルカナルの戦いから本格化し、軍事物資が封じ込められ兵士の補充も撤退も断ち切られた。日本軍にこうした物流管理の思想は乏しく、それがのちのソロモン諸島やインパールなどの悲劇を産んだ。
また、先述の大本営の対立は、もう一つの危機を生み出していた。石油の不足である。民間需要の9割近くを米国に頼っていたが、支那事変が泥沼化し、米英蘭は石油の対日禁輸に踏み切った。この事態を好転させるためには、石油の年間産出量が 800万キロリットルにおよぶ蘭印から原油を仕入れるよりほかにない。 かくして日本軍の南進が開始され蘭印を占領したが、陸海軍の争いはここでも続いた。海軍の機動艦隊は訓練すらできず、石油の適切な配分は行われなかった。その後連合国軍の反撃が開始され、 石油の供給は断たれた。国内のほぼすべての製油所が米軍による空襲で潰滅的な打撃を蒙り、 精製処理は困難なものとなっていった。信じられないことにソ連から仕入れていた北樺太の石油についても日ソ中立条約を継続させるために手放さざるを得なくなり、頼れるものは国内で 産出する微量の石油以外になくなっていった。石油が戦争勃発の原因とも、戦争継続の危機ともなっていったのである。
監修・文/秋月達郎