戦争と演芸界① ~無念の禁演落語こそが平和の象徴~
桂紗綾の歴史・寄席あつめ 第1回
『歴史人』ファンの皆様、私、大阪の朝日放送アナウンサー・桂紗綾と申します。もう一つの肩書が社会人落語家で、30歳を過ぎた頃から落語にのめり込み、気付けば自分でも高座に上がるようになりました。落語は市井の人々が主役、時代を反映した大衆芸能で、その他の伝統芸能(講談や浪曲・文楽・歌舞伎等)にも影響を受け、もちろん歴史とは切っても切れない関係なのです。このコラムでは、落語を中心に“伝統芸能と歴史”について綴って参ります。どうぞよろしくお願い致します。
お上の思想統制に対し禁演落語のネタをお墓まで立てて葬るという“粋”

東京浅草の本法寺にある「はなし塚」。写真:髙橋義雄 / PIXTA
『歴史人』8月号のテーマは「日米開戦80年目の真実」。太平洋戦争は1941年12月8日(日本時間)真珠湾攻撃を機に始まった戦争ですが、日本人にとって“戦争”は、そのずっと前から続き、日常生活にも大きく影響を与えました。特に日中戦争開戦以降は、国家全体で戦争遂行のために厳しい思想統制が始まり、演芸界も例外ではありませんでした。
1940年9月、不健全なものに対するお上の取り締まりを意識し、落語界は“自粛”という形で、廓噺(くるわばなし)や艶笑(えんしょう)噺、残酷な噺等、53種類のネタを“禁演落語”に指定し、翌年にはお墓まで立てて葬ったのです。その「はなし塚」は今も浅草の本法寺に残っています。石碑の裏側には「葬られたる名作を弔い」という文字が刻まれ、当時の噺家たちの忸怩(じくじ)たる思いを感じさせます。〝自粛〟ではあるが、そうしなければ演芸界自体が睨まれた時代にせめてもの抵抗で、噺を派手に埋葬するという“粋”を見せたのです。
実は私が最初に覚えたネタが何を隠そうこの禁演落語の一つ『紙入れ』でした。貸本屋の手代である新吉が出入りの大店の女将さんから手紙を受け取ります。「今日は旦那が留守だから、泊まりにきて♡」と書かれている。ドキドキしながらやってきた新吉は、女将さんに誘われるがまま床に入って〝イイ事〟に及ぼうとしたその時…旦那が帰ってきた! タイミング最悪ですね。慌てて身支度を整え裏口から逃げますが、紙入れ(お財布のようなもの)を枕元に置いたまま忘れてしまった! それが旦那から頂戴したもので、しかも女将さんからの手紙を入れてあったとは…とんだヌケサクです、ダメ男です。間違いなく自分が間男だとバレてしまった、きちんと謝ろうと決意し(この辺がバカ正直でかわいいんです)、翌朝旦那の元へ。
ところがこの旦那が新吉を上回る天然ボケで…ざっとこういうネタです。素直で間抜けな新吉、艶っぽく打算的な女将さん、貫禄があるかと思いきや鈍感でとんちんかんな旦那。良くも悪くも人間らしさが盛り込まれた噺で、私は大好きなのです。ただ残念ながら、当時は恋愛映画ですらご法度の風潮。当然、風俗を乱すような「遊郭や妾(めかけ)、好色、不義、卑猥等の噺の口演は自粛」という時局により、色事をおもしろおかしく描いたこの『紙入れ』も禁演落語に指定され、葬られました。

本法寺の壁には寄進者として、落語家や寄席の名前などが刻まれている。写真:髙橋義雄 / PIXTA
しかし、終戦間もなくして、寄席でお客さんが望んだ落語はその封じられた禁演落語たちでした。1946年9月30日、「はなし塚」の前に落語関係者が集まり、禁演落語の復活祭が大々的に行われました。その解禁を受けて禁演落語の会が各地で開催されると、どこも大入り満員、大盛況。禁演落語の復活は、皆が心から笑いを堪能出来る平和の到来だったのです。