新札の顔・渋沢栄一のアンドロイドに会える注目スポットー生誕地「中の家」の歴史を探る
渋沢栄一の足跡
現在、注目を浴びる歴史の偉人・渋沢栄一の生誕の地に立ち、大河ドラマ『青天を衝け』でも随所で登場する「中の家」(埼玉県深谷市)。大河ドラマ放映中の本年は、観光スポットとしても多くの人を集めており、座敷では帰省してくつろぐ渋沢栄一を再現したアンドロイドにも会えるという。立派な建物から渋沢家の裕福な暮らしぶりが薫り、主演・渋沢栄一役を演じる吉沢亮も訪れたという建造物の歴史に迫りたい。
典型的な養蚕(ようさん)農家の建物とされる「中の家」

現在立つ主屋は、渋沢栄一生誕地に建ち、栄一の妹夫妻によって明治28年上棟された建物。建て直された現存する建物のなかには、栄一が帰郷した際に寝泊まりしたという部屋も残されている。
明治28年(1895)、旧渋沢邸 「中の家」は渋沢栄一の妹「てい」の婿・市郎によって建てられた。 「中の家」は「なかのいえ」ではなく「なかんち」と読む。「家」を「ち」と読むのは、埼玉県北部ではさほど珍しいことではない。
典型的な養蚕農家の建物とされる「中の家」は、木造2階建ての切妻造りになっている。切妻造りとは、屋根を棟から両側へ葺きおろし、その両端を棟と直角に切ったもので、ちょうど本を開いて伏せたような形になっている。
建物の広さは約85坪というので、約280.5㎡になる。なお、「中の家」が渋沢栄一の生家でないのは、妹婿の市郎が建て替えたからである。というのも、もともと同じ場所にあった栄一の生家は、明治25年(1892)に火事で焼失したからだ。

旧渋沢邸「中の家」正門。「中の家」と呼ばれる由来は、栄一が生まれた血洗島村に渋沢姓を名乗る家が17軒あったことから、「東の家」「西の家」「中の家」「前の家」「新屋敷」などという呼び名があったことにある。画像提供/深谷市
栄一が実家を飛び出したため、妹「てい」が親戚の須永家から市郎を婿養子として迎え、家を継いだ。明治20年(1887)、市郎は養蚕の仕事をさらに拡大するため、もとあった家を新しく建て替えた。しかし、その家は先述のとおり明治25年に焼失。その3年後に新築なった 「中の家」が現在も残っているのだ。
「中の家」の門の脇の昭和15年(1940)に建立された石碑には、「青淵翁(せいえんおう)誕生之地」と刻まれている。なお、「青淵翁」とは渋沢栄一のことを意味する。揮毫したのは、明治の文豪として知られる幸田露伴である。

渋沢栄一アンドロイド(旧渋沢邸「中の家」)。80歳の渋沢栄一の姿を再現されており、「中の家」の奥座敷である自分のお部屋に座っている。ゆーっくり動く。画像提供/深谷市
「中の家」は昭和60年(1985)から「学校法人青淵塾渋沢国際学園」の学校施設として使用され、たくさんの外国人留学生が学んだ。しかし、平成12年(2000)に同法人が解散したため、「中の家」は深谷市に帰属した。市指定史跡。
旧渋沢邸「中の家」
[住所]埼玉県深谷市血洗島247番地1
※新型コロナウィルス感染症拡大防止のため、混雑状況により見学をお待ちいただく場合がございます。
※中庭までお入りいただき、建物の外観を見学することが出来ます。
【問い合わせ】 048-587-1100 渋沢栄一記念館