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側室は40人、産ませた子供は55人! 家斉はなぜ“絶倫”将軍だったのか? ~ 11代将軍・徳川家斉 ~

徳川15代将軍列伝 〜 江戸幕府を開いた家康から、最後の将軍・慶喜まで〜 第12回 

庶民文化と大奥全盛期の“大御所”

「大御所政治」と揶揄される贅沢三昧の生活を満喫した家斉。だがその治世では、華やかの町人文化も繁栄した。イラスト/さとうただし

 10代将軍・家治の養子となったのが一橋治済(はるさだ)の四男として生まれた家斉(いえなり)である。天明7年(1787)4月に将軍位に就いた家斉は、罷免された田沼意次に替わって白河藩主・松平定信を老中首座に据えた。ここから完成5年(1793)までの「寛政の改革」が始まる。

 

 この時期・寛政4年(1792)から文化・文政・天保年間(1804~1837)までは、外国船が日本近海に入り、通商・開国を要求する国も出てくる、これまでとは違った重圧が始まった時代でもあった。例を上げると、寛政4年(1792)9月には、ロシア使節のラックスマンが根室に来航し通商を求めたし、文化元年(1804)9月には、同じくロシア使ロザノフが長崎に来航して通商を要求した。その後「フェートン事件」「ブローニン事件」などが起き、幕府が「異国船打払令」を出したのが文政8年(1825)であった。その後も「シーボルト事件」「モリソン号事件」などがあって、幕府は「外国との交渉」というこれまでに例のない対応にも追われることになる。そんな時期の将軍が家斉であり、15歳で着任して以来およそ50年近くを将軍位に君臨した。

 

 この文化・文政という時代は庶民文化の全盛時代であり、例えば十返舎一九の『東海道中膝栗毛』や式亭三馬の『浮世風呂』、滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』なども出版されている。

 

 田沼失脚の後、約10カ月の空白時期を経て老中首座に就いたのが白河藩主・松平定信であった。定信は、8代将軍・吉宗を祖父に持つ。10代将軍・家治は従兄弟であり、家斉には従叔父に当たる。定信は、幕閣の最高位にあって張り切って政策を打ち出した。その中心には「農村復興」があり、幕閣のブレーンには「藩政改革」に成功した藩主・譜代大名を集めた。しかし、定信の改革政治は厳しいものがありすぎて、これに反発した庶民たちは「白河の清きに魚もすみかねて、もとのにごりの田沼恋しき」などとする狂歌を詠んだりした。そして寛政5年7月、定信は突然、将軍補佐役と老中職を解任される。この時期になると、様々な問題から定信と家斉の間にはすきま風が吹き始めていた。

 

 次に水野忠成が登用され、さらに水野忠邦が政治を任されることになる。家斉といえば「大御所」イメージが強いが、大御所であったのは晩年のほぼ4年間をいうが、その治世の大部分を「大御所政治」と呼ぶような感覚がある。他に家斉といえば、側室が多く子福者としても知られている。家斉の側室は40人。このうち17人が合わせて55人(男子27・女子28)を産んでいる。だが、生育したのはこのうち、男子13人、女子12人であった。言い方を換えれば、家斉時代は「大奥全盛期」でもあった。

 

  また家斉時代には大坂で「大塩平八郎の乱」も起きている。家斉は大御所として君臨して4年後の天保12年(1841)閏1月、退廃の極みの中で病死した。68歳。

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過去記事

江宮 隆之えみや たかゆき

1948年生まれ、山梨県出身。中央大学法学部卒業後、山梨日日新聞入社。編制局長・論説委員長などを経て歴史作家として活躍。1989年『経清記』(新人物往来社)で第13回歴史文学賞、1995年『白磁の人』(河出書房新社)で第8回中村星湖文学賞を受賞。著書には『7人の主君を渡り歩いた男藤堂高虎という生き方』(KADOKAWA)、『昭和まで生きた「最後のお殿様」浅野長勲』(パンダ・パブリッシング)など多数ある。

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