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気配りに徹した「暴れん坊将軍」の実像 ~ 8代将軍・徳川吉宗 ~

徳川15代将軍列伝 〜 江戸幕府を開いた家康から、最後の将軍・慶喜まで〜 第9回 

幸運に恵まれていた“徳川幕府中興の祖”

ドラマのイメージから奔放な印象がある吉宗だが、逼迫状態の幕政を立て直す緊縮財政を実施するなど、その政治手腕は堅実であった。イラスト/さとうただし

 

 8代将軍・吉宗といえば、あまりにも有名な「暴れん坊将軍」を思い浮かべる読者も多いに違いない。だが、吉宗は「暴れん坊」ではなかった。それどころか、将軍自らがただ一人夜な夜な市中に出て、悪人退治などできる訳もない。では、真実の徳川吉宗とはどういう人物で、どのような業績があったのか。

 

 吉宗は、御三家の一つ紀州藩の第2代藩主・徳川光貞(みつさだ)の4男として貞享元年(1684)10月に和歌山で生まれた。もっとも、吉宗は身長が6尺余り(180センチメートル余)で色は黒く、性格は柔和ながらも力はあった。藩のお抱え力士と相撲を取れば、投げ飛ばすこともあったというから「暴れん坊」の一端は見せたかもしれない。

 

 本来は4男であるから紀州藩を継げるわけもないが、突然その機会が巡ってくる。というのは兄たちが相次いで死亡してしまったからである。紀伊徳川家の当主となった吉宗は、藩財政再建政策など藩政改革を成功させる。

 

 その頃、前回の本稿で述べたように8代将軍位を巡って幕府内部に大奥(天英院 vs 月光院)までを巻き込んで対立が深まっていた。結果として吉宗が将軍位に就いたが、この時には御三家の一つ・水戸家の徳川綱条(つなえだ)も有資格者の一人であった。こうして吉宗は、正徳6年(1716)5月に将軍となった。33歳であった。吉宗は、側用人を廃止し、家康時代同様に老中村長の姿勢を打ち出した。また、大岡忠相(ただすけ)・石川総茂(ふさしげ)・横田由松(ただとし)・萩原美雅(よしまさ)ら新しい人材を登用した。大岡は、町奉行として知られる。

 

 吉宗の施策はさまざまに上げられるが、先ず庶民も直接将軍に意見を出せるように、江戸市中と大阪・京都・駿府・甲府に設置した。しかし、財政は幕府始まって以来の逼迫状況であって、吉宗は超ともされる緊縮財政を取らざるを得なかった。倹約・貿易の縮小・新田開発などによる財政再建策を含めての施策が「享保の改革」である。

 

 また吉宗は、町火消しを創設した。それまでは大名と旗本とが消防の役割を担ってきたが、吉宗はこれに加えて「町火消組合」をつくって江戸市内の民家の消防を担当させた。

 

 吉宗が「徳川幕府中興の祖」として尊敬されるのは、こうした幕政・民政すべてに気配りが細やかだったことと、同時に元禄以来の幕政の弊害をほぼ克服したことなどによる。

 

 勿論、失敗もあった。というよりも施策の限界ということか。新田開発や年貢率の引き上げと貨幣経済の発展が相まって、米相場の暴騰に繋がったし、ある意味での農民一揆も増加したことが指摘される。

 

 吉宗は、確かに家康の曾孫ではあるが、その人生は「棚からぼた餅」的な幸運に恵まれていた。紀州藩主になったことから8代将軍になったこと、享保の改革の成功などまで、吉宗が後世「名君」と呼ばれることまで、人間「ツキが大事」を教えている。吉宗は、62歳で将軍位を嫡子に譲り、自らは隠居して「大御所」となり、宝暦元年(1751)6月20日、68歳で病死した。

 

 

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過去記事

江宮 隆之えみや たかゆき

1948年生まれ、山梨県出身。中央大学法学部卒業後、山梨日日新聞入社。編制局長・論説委員長などを経て歴史作家として活躍。1989年『経清記』(新人物往来社)で第13回歴史文学賞、1995年『白磁の人』(河出書房新社)で第8回中村星湖文学賞を受賞。著書には『7人の主君を渡り歩いた男藤堂高虎という生き方』(KADOKAWA)、『昭和まで生きた「最後のお殿様」浅野長勲』(パンダ・パブリッシング)など多数ある。

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