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悪名高き養子将軍 ~ 5代将軍・徳川綱吉 ~

徳川15代将軍列伝 〜 江戸幕府を開いた家康から、最後の将軍・慶喜まで〜 第6回 

忠臣蔵・頻発する天変地異の時代を生きた学者将軍

綱吉の施策としてもっとも評判が悪い「生類憐れみの令」。人に迷惑をかけた犬を追いはらっただけで重罪になったケースもあり、江戸庶民は不便な生活を強いられた。イラスト/さとうただし

 4代将軍・家綱の死の直前に幕閣では世継ぎ問題が論じられた。その屋敷が大手門外の下馬札ちかくにあり、その勢いも将軍を凌ぐところから「下馬将軍」と揶揄された酒井忠清は、おのれの権勢を欲しいままに続けようと(異説あり)「鎌倉幕府の先例に倣って京都から有栖川宮幸親王を迎えて将軍に」という案を示した。ところが、新任の老中・堀田正俊が「それはおかしい。徳川家には正しい御血統を踏む徳川一門がいる。どうして京都から将軍をお迎えしなければならないのか」と異論を唱えた。

 

 結果として、綱吉が5代将軍の座に着いた。綱吉は、家光の第4子として正保3年(1646)1月、江戸城内で誕生。幼名・徳松。母は後の桂昌院(けいしょういん)である。長兄・家綱は将軍に、次兄・綱重は甲府25万石を与えられ(もう1人の兄は五歳で夭折/ようせつ)、綱吉は、上野・館林10万石を与えられていた。綱吉は利発な子であり、それを見抜いた家光が「この子は生まれつき聡いから、よい師匠を選んで学問をさせよ。儒学の道で役に立てばよい」と母親の桂昌院に伝えたという。そこで綱吉は「淫する」ほどに学問に励んだ。

 

 兄・家綱が病死した時には次兄・綱重もこの世にいない。幼少の子・虎松(後の家宣/いえのぶ)だけが甲府宰相としていた。そこで、34歳になっていた館林宰相・綱吉が兄・家綱の養子として5代将軍に迎えられた。徳川将軍家にとって初めての「養子将軍」である。

 

 綱吉にとって館林時代から儒学の弟子でもあり、小姓でもあった柳沢吉保(よしやす)も、綱吉に従って館林藩士から幕臣となった。綱吉の治世は、ほぼこの吉保と共にあったと言っても過言ではない。吉保は、150石から始まり、幕府小納戸役で530石、随時出世して側用人・若年寄、さらには7万石の川越藩主から大老格となり甲府15万石の大名となった。

 

 綱吉の治世で最も有名な「生類憐れみの令」は、犬だけを大事にする法令のようにいわれているが、実態は違う。綱吉は「先ず人間の命を大事にせよ」とし「同様に、犬・牛・馬などの命も大切である」とした。つまりこの「憐れみの令」は、現代の動物愛護・福祉衛生法に近い法律であった。誇大に犬のみが取り上げられ綱吉は後には「犬将軍」などと言われ、吉保も「ゴマすり・悪人」と見なされるようになってしまった。

 

 綱吉は強い将軍であることを意識して、自ら大名などを裁く「親裁」を実行し、学者将軍でもあった。それが「元禄文化」なる時代を産み出してもいる。また底を尽き掛けていた幕府の財政を補うために「貨幣改鋳(かへいかいちゅう)」を行い500万両もの財政支援が可能にした。

 

 この時代の最大の話題は「忠臣蔵」であろう。浅野内匠守(あさのたくみのかみ)家臣団が、仇と狙う吉良上野介(きらこうずけのすけ)屋敷に討ち入った事件である。天変地異も起きた。宝永地震・宝永噴火・京都大火などである。綱吉は、宝永6年(1709)1月、病死する。64歳であった。その5年後に吉保も病死する。

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江宮 隆之えみや たかゆき

1948年生まれ、山梨県出身。中央大学法学部卒業後、山梨日日新聞入社。編制局長・論説委員長などを経て歴史作家として活躍。1989年『経清記』(新人物往来社)で第13回歴史文学賞、1995年『白磁の人』(河出書房新社)で第8回中村星湖文学賞を受賞。著書には『7人の主君を渡り歩いた男藤堂高虎という生き方』(KADOKAWA)、『昭和まで生きた「最後のお殿様」浅野長勲』(パンダ・パブリッシング)など多数ある。

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