長崎・大村藩から五島列島・福江藩へ移住したキリシタンが直面した「地獄」
「歴史人」こぼれ話・第31回
豊後の武将・大友宗麟(おおともそうりん)は、宣教師フランシスコ・ザビエルに領内での布教活動を許可したことで知られる。その後、長い年月を経て江戸時代を迎えた九州のキリシタンは、諸藩の中でどのような扱いを受けたのだろうか?
大村藩主・大村純忠が強硬的に進めたキリスト教の布教

長崎県五島市にある水ノ浦教会の外観。その信徒は、長崎・大村藩と五島列島・福江藩との政策により、1797年に外海した5人の男性とその妻子の移住にはじまるという。/フォトライブラリー
日本初のキリシタン大名は、長崎県大村市周辺を拠点としていた大村純忠(おおむらすみただ)、後の大村藩初代藩主・大村喜前(よしあき)の父である。
彼は永禄6年(1563)、フランシスコ・ザビエルとともに日本へとやってきたイエスズ会宣教師コスメ・デ・トーレス神父から洗礼を受けた後、領民に信仰を勧めたことでも知られている。当時の大村領内では、日本全国のキリスト教信者の約半数にものぼる6万人以上もの信者がいたというから、いかにその布教の熱意が高かったのか、うかがい知れる。
ただし、それは必ずしも、領民が望んでいたことではなかった。純忠の信仰は強権的なもので、領内の寺社を破壊。その上で、僧侶や神官や、改宗に応じない領民を殺害するという、強硬手段に訴えたものであった。
その3年後の永禄9年(1566)に洗礼を受けたのが、五島列島を領有していた宇久純堯(うくすみたか)であった。五島氏の祖・五島純玄(ごとうすみはる)の父である。息子・純玄も若い時に洗礼を受けたものの、家督を継いで以降、今度は秀吉のバテレン追放令を受けて、やむなくキリシタン迫害を始めている。
この純玄に子がいなかったため、五島氏の跡を継いだのが、叔父にあたる玄雅(はるまさ)であった。福江藩(五島藩)の初代藩主である。彼もまたキリシタン大名で、純玄亡き後、一転してキリシタンを再興しようとしたようである。それでも、徳川家康による禁教令に従って、これまたやむなく弾圧を継続。五島にいたキリシタンは、ほぼ壊滅したという。
さて、注目すべきは、ここからである。状況が変わったのは、寛政9(1797)年のことであった。五島藩初代藩主・玄雅から数えて8代目にあたる盛運(もりゆき)が、疲弊する農村復興策として、前述の大村藩からの移住者を募ることにしたのだ。
大村藩でのキリシタン処罰は五島藩よりもはるかに厳しかったことから、最盛期には3000人ものキリシタンが、迫害を逃れて五島列島各地に移住していったという。しかし、山間の僻地(へきち)や離れ孤島に住まざるを得なかった彼らを待ち受けていたのは、先住者からの迫害と生活苦であった。
「五島は極楽行てみりゃ地獄 二度と行くまい五島の島」と、「五島キリシタン唄」に歌われたほどの悲惨さだった。
しかし、実は彼らを待ち受ける試練は、これだけには止まらなかった。それ以上悲惨だったのが、明治元年に起きた明治政府によるキリシタン摘発である。中でも、五島列島福江島北に位置する小さな久賀島(ひさかじま)での出来事が、耳を塞ぎたくなるような話であった。
松ヶ浦にあるわずか6坪ほどの狭い牢屋(ろうや)に、何と200人ものキリシタンたちが押し込められたという。単純に計算すれば、1平方メートルに10人もの人が押し込められたことになる。もちろん立つだけの余地もなく、床に足が着かずせり上がってしまう人まで出る始末。
身動きできないまま亡くなっていった人も少なくなかったに違いない。さらに、ウジが湧いても放置され、ひもじさにもがき苦しむ子供に顔をかきむしられる母親もいたという。42人もの人が、ここで亡くなっている。
状況を知った外国領事たちからの抗議を受けて、後に多くの人が出獄できたというが、全ての人が放免されるまでには、さらに数年を要したとか。
大村から迫害を逃れようと五島へたどり着いたキリシタンたち。地獄から逃れようとした彼らを待ち受けていたのは、それ以上の生き地獄だったのであった。